時計を裏返して

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 日曜日の深夜、月曜日へと日付が変わる瞬間が好きだ。この夜のために、一週間を生きているといっても過言ではない。  大好きな瞬間が訪れる前に、コーヒーを淹れる。少しフルーティな酸味のきいた浅煎りのコーヒーが好きだ。明日の午前6時の電車で出勤しなくてはならないので、本来は強いカフェインは御法度だ。でも、今はこの眠気をあとかたもなく吹き飛ばしてしまいたかった。  スマートフォンは、寝室の充電器に繋いだ。僕より一足早く就寝してもらおう。先ほど淹れたコーヒーを持って、書斎に入る。僕の通勤用鞄の隣では、社会人のたしなみである腕時計が、時を刻んでいる。社会人になって早6年。営業マンとして外回りをする僕の左手首はくっきりと腕時計の形に日焼けしている。肌身離さずつけてきた、僕の相棒だ。23時58分。僕は腕時計を裏返した。4年前に旅先の土産物屋で一目惚れして買った、デジタルの置き時計も裏返した。23時59分。パソコン画面の右下には小さな付箋を貼って時間を隠す。  ポロロンと、通話アプリの通知が鳴った。その電子音でさえ天使のハープの音色のように美しく響いた。1年前から遠くの国に住んでいる恋人と、毎週この時間にビデオ通話をするのが、僕の1番の楽しみだ。  画面に恋人が映る。エメラルドグリーンのアーガイルチェック模様のマグカップを片手に笑顔で僕に手を振ってくれた。僕たちはコーヒーを飲みながら、他愛もない話を始める。  恋人がいるコロンビアとの間には14時間の時差がある。画面の向こうに映る窓からは眩しい太陽の光が差し込んでいる。商社勤めで激務の彼女も、日曜日の朝には仕事を忘れてコーヒーブレイクを楽しむ。僕はその時間に合わせて、でも、僕も恋人も「今そっちは何時?」なんて野暮なことはきかない。この時間帯は、僕たちだけの時間であって、政府が決めた標準時にはとらわれたくはないのだ。だから、僕はこの時間だけは時計を裏返している。  今週の水曜日にたまたま仕事で京都出身の日本人と出会ったと、彼女は楽しそうに話す。彼女が持つマグカップからはゆらゆらと湯気があがっている。香りまでこちらに伝わって来るかのように感じる。僕のコーヒーからあがっている湯気のゆらめきも、君に伝わっているだろうか。僕の飲んでいるコーヒーは、今朝馴染みのコーヒーショップで買った、コロンビアのナリーニョ県の豆を挽いたものだ。君のいる国の太陽をたっぷり浴びた赤い果実が、海を渡って僕のもとへやってきた。君の飲んでいるコーヒーと、僕の飲んでいるコーヒーは同じ香りなのだろうか。 「戻ってきたら、一緒に京都にいこうか。秋でも春でも綺麗な景色が見られるし、夏や冬でも気候は厳しいかもしれないけどきっと楽しいよ」  僕がコーヒーをよく飲むようになったのは、まだ君が日本にいるときだった。眠気が消えて思考がクリアになると、思い出の色も鮮明になる。君とカフェで過ごす穏やかな時間が本当に好きだったのだ。こうしてコーヒーを飲みながら君とビデオ通話をしていると、君が手を伸ばせば触れられるほどすぐそばにいるような錯覚に陥る。  電子機器を媒介したコミュニケーションはどうしたって、伝えたいことのすべては伝わらない。メールの文面の細かなニュアンスのすれ違いで喧嘩をすることだってある。顔の見えない電話では、常に不安がつきまとう。顔が見えているビデオ通話は比較的マシな部類ではあるけれども、きっと言葉にできない何かを有線LANケーブルのどこかに落としてしまっている可能性は否めないのだ。  だからこそ、僕たちはリアルな対話よりも気を配りながら誠実に相手と向き合わなければならない。だからと言って気を張りすぎるのも粋ではないけれど。ただ、僕らが日本でデートをしていた時より少しだけ素直な気持ちで、可愛らしい部屋着の君を見つめる。君がきっかけで好きになったコーヒーはその手助けをしてくれているのだと思う。 「会いたいな」  僕がそう言うと、愛しい恋人が「私も」とはにかんだあと、コーヒーを一口飲んだ。僕も、あわせて一口飲む。コーヒーはもう残り少なくなっている。きっともう少ししたら、「また来週」と手を振って、僕は仕事に向かい、君は余韻に浸りながら日曜日の午後を迎えるのだろう。名残惜しい時間を味わいながら、ヘッドセットのマイク越しに愛をささやいた。  ゴクリと、最後の一口を飲み干した。後味が、君との初デートで飲んだブレンドコーヒーの味に似ていたような気がした。空っぽになったコーヒーカップに、恋しさと愛しさが代わりにあふれんばかりに注がれる。 「結婚しようか」  思わず、言葉が口をついて出た。君はとても驚いた顔をしていた。けれども、すぐにいつもの天使のような笑顔で頷いた。  指輪も綺麗な夜景も花束もないプロポーズになってしまったけれども、それでも今すぐ君に伝えたくなった。ごめんね、今度君の元へ会いに行くときにはコーヒーよりも目が覚めるくらい素敵な指輪を贈るから。  僕が今いきなり向こうに行って仕事はどうするのかとか、世界情勢のことだとか、考えることは山積みである。結婚は2人だけの問題ではないし、これから先、綺麗ごとだけでは済まない大変なこともたくさんあるだろう。  それでも、時計を裏返さなくとも君と同じ時を生きられる僕でありたいと思った。日曜日の朝に2人でコーヒー豆を買いに行きたいと思った。一番好きな香りのコーヒーを、君のために淹れたいと思った。
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