ダル・セーニョ

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「う……嘘だァ」 思わず響は気の抜けた声で返した。 「如月奏な訳がない……。 だって如月奏は——」 「……」 青年は、無表情のまま腕を組んだ。 怒ってしまったのだろうか? 響が不安になっていると、青年がぽつりと口を開いた。 「俺が俺であることを証明する——難しい問題だね」 そうして口元に手を当て、何やら難しい顔で考え込んでいるのを 響はただ呆然と見守っていた。 本当に如月奏? ……そんなはずがない、よな? でも、この人がこんなに真剣に考え込んでいるのを見ると なんだか嘘をつかれている感じはしない。 響も青年も、互いに困惑したまま時が流れた。 うう……気まずい。 こういう時はどうしたらいいんだ。 あのスーツの人、早く戻って来てくれないかな…… 響が冷や汗を流すと、青年は弾かれたように顔を上げた。 ずんずんと響の方へ歩いて来たため、響が驚いて固まると、 青年は「どいて」と涼しい表情で言った。 「えっ!あ——ハイ」 青年が、自分の後ろにあるグランドピアノに座りたいのだと察したら響は 慌ててピアノから一歩距離を取った。 青年は椅子に腰掛けると、隣に立っている響を見上げて言った。 「——好きなもの、教えて」 「へ?」 「何でもいい。単語で答えて」 「っ……ええと、じゃあ……バニラアイス」 咄嗟に、今食べたいものを挙げると 青年は少しだけ考えた後、両手を鍵盤の上に置いた。 そして奏で始めたメロディに、響は目を見開いた。 今までに聞いたことのない音楽。 クラシックもそれ以外もひと通り齧った響にとって、 聴き馴染みのない旋律はかえって珍しかったため、それだけでも新鮮だったが 息を呑んだのは、その旋律から膨らんで行く世界観だった。 頭の中に、夏の風景が広がる。 うだるような暑さの中、コンビニまで自転車を走らせて 冷房のきいた店内でお気に入りのカップアイスを物色する。 また外に出て、ぎらつく太陽にうんざりしながらも カップの蓋を開けると、ふわりとバニラビーンズの芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。 木べらのスプーンですくって食べると、喉から胃へとひんやりした液体が流れ込んで行くのを身体が実感する。 夏に、家の近くでバニラアイスを買って食べる自分の姿が浮かんでくる。 それも手軽な棒付きアイスではなく、すくって食べるカップアイス。 夏の暑さも、アイスの冷たさも、バニラの甘い香りも ピアノの音色から浮かび上がって来る。 この青年は、響からもらったお題に沿って 即興でひとつの音楽を創り上げたのだ。 予め構想を練っていたものとは違う。 これは間違いなく、皐月響がバニラアイスを買って食べるという、皐月響を現した音楽だ。 それに気づいた響は、こんな芸当ができるのは——少なくとも響の思う限り——この世で一人しかいないと直感した。 「……きさらぎ、そう……さん」 気付くと、響の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
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