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だが響はめげなかった。
自分は人の心を掴む演奏をすることができる。
だから人の心を掴む音楽を生み出すことも出来るはずだ。
そう希望を見出した響は、ピアノ科から作曲科に転籍し、作曲の技法を学んだ。
しかし響の作った音楽は、人の心を掴むことが出来なかった。
音楽を組み立てていると、どうしても進行形態やアレンジに如月奏の片鱗が入ってしまう。
演奏して誰かに聴かせると、
『如月奏っぽい音楽だね』
という感想が返ってくるのが何よりの証拠だった。
思い切って、如月奏が作らないようなテイストの音楽を作っていた時期もあったが、
それらはあからさまに周囲の不評を買った。
如月奏に寄せた音楽は評価されるが、如月奏を超えることはできない。
如月奏を意図して遠ざけた音楽は評価すらしてもらえない。
響は初めて、自分には作曲の才能は無かったのか——と気付いた。
ピアノが弾けず、作曲家としての活路も見出せないとなった響は
大学3年生の時、プレイヤーやクリエイターとして音楽と生きることを完全に諦めたのだった。
そこから響は必死で就職活動をし、都内のとある音響機器メーカーから内定をもらった。
母親からは、地元に戻って来てピアノ教室を継がないかと言われたが
響は地元に戻るつもりはなかったため、そのまま上京して音響機器メーカーに入社した。
ピアノ教室の先生になっても自分が満足に演奏できない以上
子ども達の手本になれるとは思えなかったからだ。
そして会社員として、東京で働き始めて一年が過ぎた頃——
テレビから流れて来た『2月のセレナーデ』に身体が反応し、
次いでアナウンサーの読み上げる『如月奏逝去』の言葉に全身を震わせたのだった。
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