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ピアニストとして、作曲家としての夢を諦めた後も、音響機器メーカーの社員として音と関わる仕事をしていた響は、音楽への情熱を完全に捨てた訳では無かった。
自分で演奏出来なくなった後も、気になる音楽があればすぐにチェックしていたし、
クラシックコンサート、ジャズ喫茶、ライブハウスなどの音楽と触れ合う場所にもよく足を運んだ。
けれどもどんなに沢山の音楽に出会っても、如月奏を超える作曲家を響は知らなかった。
自分にとって、自分の才能を開花させてくれた『2月のセレナーデ』は特別な音楽なのだ。
その一曲に留まらず、如月奏の作るすべてが響にとって心地良く病みつきになる音楽ばかりで、如月奏は響にとって音楽の神様とも言える存在だった。
その神様の死。
神は死んだ——
ニーチェの言葉が、ふと頭をよぎった。
如月奏には家族がいない。
両親についての情報は公表されていないが、どちらも既に他界しているという噂だった。
兄弟も、配偶者もいなかった。
これは如月奏自身がメディアに明かしている事実である。
だが、楽曲制作によって得た莫大な資産があったため、
都内にある大きな邸宅でお金に不自由なく暮らしていたことは、いつかの音楽雑誌で取り上げられていたことがあり響も知っている。
そして遠い親族が、主を失ったこの邸宅を競売にかけているらしいことを、ここ最近テレビで紹介していた。
社会人1年目の響には、防音室付き、庭付きで四方を囲む塀まで付いたこの豪邸を競り落とす金など当然ないため、自分には無縁なニュースだとスルーしかけた。
だが、ふとテレビ画面に映った邸宅を見て
響は「ん?」と動きを止めた。
ここ……知っている場所かもしれない。
響の勤め先では、自社の音響機器を購入したユーザーへのアフターケアの一環で
ユーザーの自宅へ出向き、使い方で分からないことはないか、故障していないかなどを伺サービスをしている。
新入社員は研修の一環で、この御宅訪問業務を全員が経験する。
各部署に配属された後も、ユーザーの目線に立って業務にあたれるようにという会社の理念によるものだった。
その研修時に、響が回った邸宅の一つがここだったのだ。
閑静な高級住宅街の中で、他の家々とは少し離れた場所にぽつんと建てられており
室内には一際目を引く白いグランドピアノが置かれていたことから、嫌でも記憶に残る豪邸であった。
まさかあの家が如月奏の住居だったとは!
確か俺が訪問した時は、屋敷の主人が仕事で不在だとかで、執事だという初老の男性が応対したんだっけ。
響は半年ほど前の記憶を思い出していた。
そうか。あそこで如月奏が暮らしていたんだな。
そしてその家が競売にかけられてて、いつかは見知らぬ成金のものになってしまうんだな……。
……。
……なんか、嫌な気持ちになる。
如月奏の死を未だに乗り越えられていなかった響は、
彼の邸宅が誰かに競り落とされ、白いグランドピアノが撤去されて
がらんとしていたリビングに成金趣味のインテリアが敷き詰められるのを想像し、思わず眉間に皺が寄ってしまった。
そして、そんな変わり果てた邸宅になってしまう前にもう一度、如月奏の生活していた形跡を目に焼き付けておきたい——そんな欲が湧いてきた。
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