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早速思い立った響は、次の休みに邸宅のある住宅街へと向かった。
電車を乗り継ぎ、駅から暫くの距離を歩いて行くと、研修時代にも見た懐かしい景色が見えて来た。
すると邸宅を囲む高い塀の前に、スーツを着て立っている男の姿を見つけた。
「ああ、御予約のお客様ですか?」
「御予約?」
響がきょとんとすると、スーツの男はすぐに人違いに気付いたらしく謝って来た。
「失礼しました!
てっきり、本日内見の予約をされているお客様が到着されたのだと思ってしまいました」
「内見——あ、競売の……」
「ええ。テレビの紹介を見た方々が、ぜひこのお屋敷を見てみたいと、我が不動産に連絡をくださいまして。
昨日も二組、内見のお客様がいらっしゃいましたよ」
「そうなんですね」
そうかぁ。
こんな豪邸を買い取れる財力のある人間が世の中に居るんだな。
響がそう思っていると、スーツの男がじっとこちらを見つめて来た。
顔や服装から、響が若く、まだそれほど金を持っていない——つまり内見の客ではないことは判別できたようだが、
ならばなぜここで立ち止まっているのだろう?と知りたげな様子であった。
「何か、ここに御用が?」
「……ええと。俺、この家の主人——如月奏のファンなんです」
「なるほどなるほど……!著名な御方ですものねえ。
あなたのような若いファンもいらしたとは、さすが世界にも名の通じた作曲家ですよね!」
「はい。俺の人生を変えてくれた、俺にとっては神様のような人だったので——
誰か知らない人の持ち物になる前に、如月奏が暮らしていた跡を見納めしたいなと思って来てみたんですが……。
よく考えたら、競り落とす意思も金もない人間が彷徨いてたって、迷惑なだけですよね。
すみませんでした」
響が小さく会釈をしてその場を去ろうとした時、スーツの男のスマホが鳴った。
「はい!お電話ありがとうございます——あ、これはこれは。
……えっ?左様でございますか……。
それでは、また後日ということで——」
スーツの男は電話を切ると、既に歩き始めていた響を慌てて引き留めた。
「お待ちください、『お客様』!」
「え?」
響が不思議そうに振り返ると、スーツの男がこう話しかけて来た。
「これから内見予定だった方から、キャンセルの連絡が来まして。
午後の内見の枠がちょうど空いたので、良ければ中を見て行かれませんか——お客様?」
スーツの男の言葉に、響は目を輝かせた。
響はスーツの男に感謝し、連れ立って塀の中に足を踏み入れた。
塀の中に入ると、途端に別世界へ来たかのように辺りが静まり返った。
まだ外であるのに、防音室に通されたかのように周囲の音が消えてしまった。
不思議な感覚と、半年前にもここへ来た懐かしさを噛み締めながら邸宅に足を踏み入れると
廊下を歩いた先にあるリビングで、あの白いグランドピアノとの再会を果たした。
響は思わず言葉を失い、黙って部屋の中を眺めた。
余計な家具は一切置いていない、だだっ広いリビングの中央に鎮座する、優しい色合いのピアノ。
如月奏はこのピアノを前にして、様々な曲を生み出していたのだろうか。
響が想像を馳せていると、スーツの男は気を遣ったのか、
明日の客が来る前に、各部屋の埃を落とすなど軽く清掃をして来ると言いリビングを去って行った。
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