天才作曲家の死

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会ったばかりの若者を一人にして、あの人は平気なんだろうか? 俺が金目当ての悪い奴で、部屋の中のものをくすねたり——なんて考えたりはしないのだろうか。 ……いや、その心配がないからか。 響は室内をぐるりと見渡して思い直した。 部屋の中には何も無かった。 調度品はもちろん、ソファやテーブルといった家具類も既に持ち出されていたため、何かを盗られるという可能性がそもそもないのだと響は納得した。 それにしても、アフターケアで訪問した時には唯々見惚れるばかりだったけれど、 このグランドピアノ……触ってみたいな。 響は、かつてピアニストを目指していた頃を思い出した。 グランドピアノは自宅のピアノ教室にも置いてあったが、色はベーシックな黒だった。 それも、これはただのピアノではない。 如月奏が作曲のために弾いていたピアノだ。 如月奏が弾いたピアノを、俺も弾いてみたい…… そんな更なる欲が湧いて来た響は、ゆっくりとピアノの前に近づくと、 恐る恐る鍵盤をひとつ叩いてみた。 ポーン……と、美しい音色が響き渡る。 コンサートホールでもないのに、綺麗に反響するピアノの音に響はすっかり心を奪われてしまった。 現役の頃のようにはいかないが、骨折した指でもピアノを弾けない訳ではない。 ぎこちなくはあるが、僅かに動く指を使って 響は『2月のセレナーデ』の一節を奏でてみた。 脳まで届くような深みのある音がリビングに充満する。 ああ……。 俺は今、如月奏と同じ場所で、同じ音楽を弾いているんだ! そんな感動を噛み締める響だったが、スーツの男が戻って来たときに夢中でピアノを弾いていたのでは、さすがに厚かましいと思われるだろうと考え、それ以上弾くのは堪えた。 そうしてグランドピアノから離れようとした時、響はふと、譜面台の影に紙が置いてあるのが目に留まった。 ……なんだろう? 思わず手を伸ばして取ってみると、それは譜面だった。 五線紙上に、直筆の音階が描き込まれている。 最初の何節かに目を通した時、響ははっと息を呑んだ。 如月奏の楽曲をすべて聴き込んできた響だからこそ分かった。 この曲は、まだ世に出ていないものだ。 過去に聴いてきた如月奏のどの楽曲とも合致しない、つまり未発表の音楽だと理解し、響は背中をゾクゾクと震わせた。
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