23人が本棚に入れています
本棚に追加
如月奏は、死の直前までこれを作っていて、発表する前に事切れてしまったということだろうか。
だとしたら、さぞ無念だっただろう。
これ——譜面からある程度のメロディーは読み取れるけれど、実際に演奏したら、どんな音楽になるんだろう?
……弾いてみたい。
そんなうずきが全身を駆け抜け、響はいてもたってもいられない衝動に襲われた。
スーツの男はまだ戻って来ない。
ピアノの音は聞こえていたと思うが、慌てて駆けて来ないところを鑑みるに、
響がピアノを弾くことにも目を瞑ってくれているのではないか——そんな自分に都合の良い解釈をした響は、そわそわしながらピアノの前に置かれた椅子に腰掛けた。
楽譜を譜面台に載せ、ざっと最後まで目を通す。
大丈夫、そこまで難しい曲じゃない。
俺の右手でもなんとか弾けそうだ。
如月奏が遺した最期の楽曲。
俺なんかが勝手に弾いてごめんなさい。
どうか、この曲を俺が弾くことを許してください。
俺はあなたの音楽を心からリスペクトするファンです。
大切に、大切に弾かせて頂きます。
響は心の中でそう唱え、ピアノに向かって一礼すると、指先を鍵盤に乗せた。
——繊細で美しい旋律が室内に反響する。
優しい音色に包まれると、ここが邸宅の中ではなく、どこか遠い異国の、手付かずの自然の中にいるかのような清々しさを感じた。
かと思えばどこか懐かしく、例えるなら故郷を恋しく思うような、胸に刺さる音色にも化ける。
掴みどころのない、不可思議で甘美な音の並び。
言葉に形容し難い多幸感に満たされながら、最後の小節を弾き切ったとき——
気付くと響は、23年の年月を遡っていた。
最初のコメントを投稿しよう!