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(後編)
初夏の空は真っ青に晴れわたり、海面もおだやかにキラキラ輝いていたが、ボートの上は、すこぶる険悪なドス黒い空気に包まれた。
やがて、行く手に島が近付いてきた。思っていた以上に緑が濃いが、あまり起伏のない平坦な小島だ。少なくとも、重いリュックを背負いながら高低差の激しい道を登ったり下ったりする苦労はなさそうだ。
木製の簡素な船着き場に到着すると、操縦士は、
「じゃあ、明日の昼前に。迎えは別のヤツに来させるから。……せいぜいオオカミに食いつかれねぇように気を付けな」
そう言い捨てると、わたしたちのリュックを桟橋に乱暴に投げおろし、さっさと舳先を海に戻した。
わたしとミカは、エンジンをけたたましく吹かしながら海上を走り去っていくボートの後ろ姿に向かい、同時に高々と中指を突き立てた。そして、顔を見合わせて大笑いした。
不愉快なハプニングのおかげで、かえって、わたしとミカの"女の友情"は今まで以上に緊密に結びついた。
船着き場のすぐ先の浜辺では、2人組の男子キャンパーがバーベキューをしていた。
「君たちも一緒にどう?」
「キンキンに冷やしたハイボールでも島焼酎でも、なんでもそろってるから、おいでよ」
缶ビールを片手にナレナレしく声をかけてくる。
八丈島の空港の近くの食堂で昼食はすませていたけれど、網の上に見えるフランクフルトのビジュアルと匂いは暴力的なまでに胃袋を刺激してきた。いかんせん、幸か不幸か、今のわたしとミカは完全に"男子禁制モード"に入っている。わりとキュートな陽キャ風の明るい男子たちだったけど、ここは女の結束が最優先。
そのあとも何人かの男性キャンパーから「荷物持ってやろうか?」だの「僕たちのテントの隣にテントを張るといいよ。水場が近くて便利だから」だのと声をかけられた。けれど、わたしとミカは妙な意地をはって、俗世の誘惑から身を遠ざけるべく、明るい浜辺に背を向けて、どんどん森に向かった。
浜辺には明るい日差しが燦々と降りそそぎ、真っ白い砂浜に大輪の南国風の花が咲き乱れていたのに。森の中へと進むほどに、うっそうとした木々の葉の繁みが空を覆い隠し、木漏れ日をすり抜けた白っぽい光だけが、薄暗い足もとを点々と照らす。遊歩道とは名ばかりの、なかば朽ちかけた板張りの細い道だ。
人気のない森の中は、さぞや静寂に包まれた癒しの空間だと想像していた。実際は、小さなそよ風にも不安げにザワめく葉擦れや、どこからともなく聞こえてくる川のせせらぎ。それに、鳥の羽ばたきらしき音や姿の見えない生き物たちの鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。
あらかじめ自宅のパソコンからプリントアウトして持参してきた島の案内図によれば、遊歩道の行き着く先には水場とトイレのある広場があるはずなのだ。寝転がって夜空をあおげば満点の星を一望できる、知る人ぞ知るロマンチックな"映えスポット"らしい。
「ほら、がんばってミカ! もうヒトイキ」
自分自身をふるいたたせるためにも、わたしは、めいっぱい陽気な声をあげて後ろを振り返った。
ミカは、背中のリュックが上下するほど、肩をビクリとオオゲサにはずませて、
「しーっ!」
と、人さし指を自分の唇の前に立てた。
わたしは、首をかしげた。
「どうしたの?」
「なんだか、さっきから、誰かに後をつけられてる気がするの。後ろから何かの気配が……」
「やだ。変な冗談やめてよ」
「冗談なんかじゃないってば。ほら、耳をすませてみてよ」
ミカが声をひそめて言ったとたん、背後の低木の繁みがガサガサッと揺れ動くと同時に「グルルルルッ」と犬のような唸り声が漏れてきた。
声もなく震えあがったミカとわたしは、必死に遊歩道の先を走り、その場から離れた。
アウトドア用品店の店員は、この島に人間に危害を加える動物はいないと言っていたけれど。ボートの操縦士は「オオカミに食いつかれないように気を付けろ」と捨てゼリフを吐いていた。
――ひょっとしたら、キャンプ客に連れてこられて迷子になったか捨てられたかした犬が野生化して生き延び、ずっと森の中に潜んでいるのかもしれない。だとすれば、オオカミばりに危険じゃない?
やがて、無我夢中で走るうち、案内図にあるとおりの草原の広場に出た。
「もうムリ。あたし、もう今日は一歩も動けない。オナカもペコペコ……」
ミカは泣きベソをかくと、リュックの重力に引っぱられたようなテイで、柔らかな緑の上にドサッと尻モチをついた。
空は、ピンクとオレンジの見事なグラデーションに染まっている。
「とりあえず、テントを張らなきゃ。テントのそばなら、どんな動物も近付いてこれないんだから。星空の下で、まったり宴会しようよ」
お気に入りのピノノワールとスプマンテのボトルに、お取り寄せのハードパンとチーズとピクルスなんかを詰め込んだ自分のリュックを地面に降ろしながら、わたしは言った。
ミカは、ハッと背筋を起こした。
「そ、そうよね。暗くなる前に急いで準備しなきゃ」
「そそ。テントさえ張っちゃえば、こっちのもんだよ」
「だよね。うん」
ようやく笑顔と落ち着きを取り戻したわたしたちは、各々のリュックの中をいそいそと探りはじめた。
すると、ミカが、すぐに「ヒイッ」とノドの詰まるような悲鳴をあげて、わなわなと全身を小刻みに慄かせながら、つぶやいた。
「テント持ってくるの、忘れちゃった……」
いつしか、空は紫色の濃淡に塗り込められていた。
森の奥からは、獣の長い遠吠えが、やけにハッキリと大きく響きわたった。
END
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