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第一話 人魚と狐
空気の澄んだ如月のことだった。村に居着いて間もない若い僧侶、栄春が水垢離(※)にと川へ向かうと、美しい少年を見つけた。
水辺に座り込み、しきりに華奢な足首を撫でている。
どうやらくじいたらしいが、清流を背に痛々しいさまは儚げで、人魚と呼ばれる天女がいるならばこのようかと思うほどだった。
「お困りですか」
近づいて声をかけると、涙を溜めた瞳がゆっくりとこちらを向いて、小さな顎がこくりと引ける。
異人らしき髪と瞳の色、さらに大寺院の稚児のような鮮やかな水干を着ていることから、ひと目でそこらの村人でないことはわかる。
どこから来たのか、なぜこんな怪我をしたのか、尋ねても首を振るばかりなので、仕方なくおぶって草庵に連れ帰ってやることにした。
軽い体からはほんのりと松の香りが漂い、栄春が子どもの頃に過ごした寺がふと思い出される。
高く切り立った山上の寺院からは、すかっと晴れ渡った空、そして雄大な海を走る天橋立が見渡せた。白い砂浜に映える松の並木の蒼さが、いまとなっても目に浮かぶ。
「高貴なお方には、むさ苦しいところでしょうが」
むしろに下ろしてやると、少年は袖でそっと口もとを隠してはにかむ。足首を確認したところ、患部は紫色に大きく腫れ、明らかに骨折しているようだった。
完全に治るには数カ月はかかるだろうか。泣き叫んでいても不思議はないのに、我慢強い子だ。
煎じた薬草を患部に塗って布を巻いてやると、「僧侶殿」という声とともにそっと腕をつかまれた。
見れば、その瞳には先ほどまでの涙とは違う潤みが湛えられている。次の瞬間、少年の水干の襟もとを留めている紐がはらりと解けた。
続いて細い指は下に着ている小袖をくつろげ、生まれて初めて光の下に晒されたかのように白い胸もとを露にする。そして自らを剥いた手で、今度は栄春の首筋に触れた。
「何をされる!」
「未だ疼くのです、僧侶殿」
「手当したばかりですから、しばらくは痛みに疼きましょう。お放しください」
瞬きのたびにぱちりと音がしそうなほど長いまつげが、ゆっくりとしばたたかれる。
先ほどまでの恥じらいはどこへやら、少年は栄春の喉仏に指を這わせながら笑う。
「皆まで言わせますか? 体の芯が疼いてかないませぬ。さあ、吾を娶られませい、僧侶殿」
湿った吐息が頬にかかった瞬間だった。栄春は手当したばかりの少年の足首をつかむと、ひと思いに力を込めた。
途端に、ぎゃん! と獣のような叫び声が上がる。本性が出たなとばかりに力を強めていき、「痛い痛い痛い!!」という声を黙殺した。
「人でないことは纏う気でわかっていた。それでも、手負いであればかわいそうにと手当てしてやったものを! 何を企んでいる!」
「いっ……企んでなどおらぬ! 夫婦の契りを結びに参っただけじゃ! 痛い、離してたもれ、紫桜!」
「なぜその名を!?」
驚きのあまり後ずさる。この世にその名を知る者はもういないはずだ。
栄春の驚愕の表情を見て余裕を取り戻したらしき少年は、不敵に微笑んで続ける。
「おお、紫桜は幼名であったの。いまは立派な僧侶になられ、栄春と名乗っておられたか。仲良うしよう、栄春殿?」
「やめろ、来るな! どういうことだ。なぜ俺の名を」
「やはり覚えておらぬか、寂しくはあるが無理もない。栄春よ、そなたのことは昔の昔からよーく知っておるぞ。
そなた、幼い頃に山寺で稚児をやっておったじゃろう。明るく人情に厚い子であったが、生来体が弱く、十五になる前に高熱を出した。死線をさまよい、いよいよ危ういかと思われたとある晩のこと」
栄春の震える唇が後を継ぐ。
「俺は……俺は何者かに肉入りの粥を差し出され、口にした。生まれて初めて味わうほどの美味に夢中になって掻き込むうちに、いつの間にか意識が途切れ、朝になると熱はすっかり引いていた。貴様は、貴様はそのときの——」
稚児姿の少年の、青く透ける虹彩がぱっと花開く。
「そ~~~うじゃ! 吾がそなたの命の恩人じゃ、栄春!!」
激しく床を打つ音に、ぐえ、という踏み潰されたカエルのような声が紛れた。
怪我をした足どころではない、栄春は少年の細い首をつかんで押し倒し、そのまま強く締め上げた。
「貴様か! 俺を人ならざるものにしたのは!! 貴様なのか! 不老不死の薬効があるという、人魚の肉を食わせたのは!!」
怒りに震える栄春の瞳は、生来の黒から妖しく光る藤色へと変わっていた。
※水垢離……水をかぶって身を清める修行。
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