蜜side

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蜜side

夕刻に降ったゲリラ豪雨が、布団をぐっしょりと重くした代わりに、寝苦しい暑さをどこかへ搔っ攫ってくれた。けたたましかった雷雨も、今では嘘だったかのように、月も、星の明るさも隠すことなく退いている。いまだ濡れているアスファルトと、コインランドリーの中でぐるぐると回されている俺の布団だけがあの雨の激しさを覚えているようだった。 「ふぅ…」 肺にくぐらせた紫煙を吐き出し、すっかり短くなった煙草を灰皿へ押し付ける。やがて消火されたそれを灰皿へ放り込み、数分前に確認したはずの乾燥機の残り時間へ目をうつした。赤いランプが34を示す。長いとも短いともいえないその時間をどう潰せばいいものかと何気なく携帯へ指を滑らせた。 適当にサイトを開けばスワイプの誤作動で広告がタップされる。そんな日常茶飯事な減少に毎度イラつきながら元へ戻そうと四苦八苦する。夢を買おうと推奨する文面をでかでかと画面にたたきつけてきたのはどうやら宝くじの広告のようで、なにをやっても元の画面には戻れない。携帯を買い替えたのは早計だったとこの3日間で何度思ったことか。 ただでさえ機械音痴だというのに、断り切れず手にした最新型の携帯電話は見事に手に余っていた。もろもろの移行作業やらは店員と担当がやってくれたからどうにか日常へ影響なく使えているものの、使う頻度は確実に減っている。 「はっ、夢ねぇ…」 夢というか運じゃないか。 消えても避けてもくれない広告を見ながら当たり前のように、また手は煙草の箱へ伸びた。カチリとライターの音を響かせ、再び紫煙が夜空へ揺蕩う。 あいにく、人生一度きりの大きな運は使い果たしてしまったんだよな。 買う予定もない宝くじサイトは画面表示をオフすることでようやく視界から消えた。 ****** 「自殺願望でもあるんですか?いや、これも悪いとは言いませんけど…」 数時間前、とある喫茶店で担当が自分へそう言った。 1時間ほどかけて目を通した俺の文章への感想がそれか。悪いとは言いませんけど、なんだ。結局悪いんじゃないか。 もっと他のイイモノを望んでいるんだろうが、あいにく物書きといえどネタが無限に湧き出るわけではない。そんな能力あったら俺だってほしい。なんてったって死活問題だ。 めんどくさいことが嫌いで、人間関係というしがらみから距離を置きたくて、人とあまり接触しない仕事を選んだつもりだった。それが物書き。書生。文章を並べることで金銭を手に入れ、細々と生活していこうと決めたのはもう何年前になるのか。しかし、仕事となると、関わる人は限定されるにしても全くかかわらないわけにはいかない。だから今日も今日とて苦手な対談をしてきたんだ。 「自殺願望は結構ですが自殺はやめてくださいよ」 心配している様子なんて一切見せずに淡々とその言葉を吐いた担当を鼻で笑い、突き返された紙に目を落とす。 かつて唯一、新人賞を受賞して文庫化されたあの本は、まだ学生だった時に書き出したものを少し手直ししたものだった。あの文章にはまだ救いがあった。まわりにはびこる十人十色の表情や言葉や仕草をそこに落とし込めるだけで生きた文になった。根暗な俺では考えつかないような言葉や考えを周りの奴らが勝手に教え、導いてくれた。 学校も卒業して今、友人も極端に少ない31歳の俺の周りは、そのころと比べて静かだった。ハッとするような言葉を吐くやつも、やってみようと思ったこともない思想で馬鹿な真似をするやつも今はいない。人間関係から離れたら、自然と文に残るのは自分だけになってしまった。 なんて寂しい世界だ。 対話もない。目新しいこともない。色づくものもなく腐敗したような自分だけの世界。 その結果、陰鬱な雰囲気ばかりが漂う自殺志願者の遺作のような文章が出来上がってしまったことは認めよう。ただ当人に対して「自殺はやめてくださいよ」なんて陳腐なセリフを吐く担当はどうかと思うが。 「前回が明るめのヒューマンドラマだっただけに、これはギャップが過ぎます。もう少し希望みたいな…先生には難しいかもしれませんが明るいものは書けませんか」 「…善処します」 日本人の善処しますはノーということを知らない担当に、それからあれがダメこれがダメとたこ殴りにされた。言葉が物理的な効力を持っているとするなら、俺は瀕死状態で担当もあわてて救急車を手配していたであろう。それほどまでにぼっこぼこにされた。横からけられれば一発で折れてしまうほど、極めつけの雑巾絞りで細くもろくなってしまった。そんな状態になってようやく解放。言いたいことは言ったといわんばかりの担当は伝票だけをもって立ちあがる。 「まだこちらに残られますか?」 尋ねられ、しばらく考え頷く。 どちらにしろ今すぐ立ち上がる気力などは残っていなかった。 「残ります。少し、考えてみます」 「わかりました。もう一杯コーヒーを頼んで会計は済ませておきますので。…あまり考えすぎないでくださいね?あと、初心に帰るのも大事かと思いまして先生の本持ってきてたんです。これ、置いていきますね」 では、と軽い会釈をして帰り去る担当を目で追い、視界から消えた瞬間に深い深いため息をついた。自然と前のめりになっていた姿勢を崩し背もたれへ全体重を乗せる。 ギィ、と軋む椅子。 静観とはいえずとも心地よさを感じる程度のざわめき。 控えめに流れる聞いたこともないBGM。 運ばれてきた追加のホットコーヒーの香り。 昼食として頼んでいたサンドイッチは半分以上残ったまま皿の上で横たわっている。 「………」 窓の外は眩しく快晴だ。 こんなに世界は平和なのに何故自分の文章はこんなに陰鬱なのか。 理由はわかっている。自分が根暗だということも自覚している。 何が初心に帰るだ、そもそもこの本のなかに俺はほとんどいない。まわりの喧騒があって初めて文章となったものだ。おもむろに手に取った自身の本をパラパラと捲るもやはり懐かしいという想いすら浮かばない。少し気恥しいような青臭い文章。それでも、今テーブルの上にある紙に綴られた文章より全然イイモノと言えよう。 こんな文章ではだめだと気づいてからは、それを直すよう一応努力もしている。 「……」 慣れない手つきで操作し、ようやく使い慣れてきたいつものSNSを開く。使い始めて1年、ようやく馴染んできた。 俺はここに自分の想いを打つ。 なるべくリアルタイムで、率直な今を。 「あーーーーーー…、消えてぇ」 ――今日もご飯がおいしい。 明るい視点へ変えて。 見えている世界に無理やり色をつけて。 今日も、「消えたい」という言葉はAIによって変換され、全世界へ発信される。
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