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2.14
――この後時間はあるかな?
なんて聞かれたら、迷わずハイ、と答えるに決まっている。
出張から帰る高速道路、もう空は暗がりに隠れ始めていて、インターチェンジを脇道に逸れていくととくとくと脈が早くなる。
どこに向かっているのだろう?
どこだっていい。できれば遠く。
寂れて道は細く暗くなる。
土手際にキ、と停車した。
黒革のドライビンググローブを外して顕れる手の甲迄を見つめて逸らす。
ドアが開いて差し出された手に手を重ねた。
道を外れて降りていき、開けた場所には湖――と言うには小規模な、大きな大きな水溜まりがあった。
黒い水面に星が揺れる。
足元に宙が降りてきたように。
細めた目から涙が溢れないように瞬きを止めると光は滲んでぼやけた。
トサ、と隣で音がしてその人は草むらに腰を下ろしていた。上質なスーツが夜露で濡れるのも厭わずに。自分もしゃがみ込もうとするとそこにハンケチーフが広げられた。
吐息が白く夜に溶けていく、ただ何も言わずにずっと眺めていた。円い星空の映しを。
ふるりと肩が震えれば、差し伸べられる手に縋って立ち上がる。
背を見つめて従いて行き、シートに深く腰掛けた。
その手はまた黒く覆い隠されて、カチリとキーが回ってエンジンが掛かる。
浮かない顔に慰めてくれたのだと思う。
今年は渡せるかもしれないと忍ばせていたけれど、やっぱり失敗してしまったから。
来年は義理ですと嘘が吐けるだろうか。
そうすればきっと娘から贈られるように目尻に皺を作って受け取って貰えるだろう。
遠く離れていく円い境界線。キラキラと輝く星を詰め込んだそれは、銀色の縁となって貴方の指にだけ繋がっている。
それを外す日は訪れない。
視線に気付いて貴方はふいと微笑んだ。
――行こうか。
と声を掛けるとやっと彼女は立ち上がった。
「御免なさい、少し昔の事を思い出していたわ」
それを訊いたってきっと答えてくれないのは知っているから、軽く頷く。
プラネタリウムに映写された丸いドームはもうただの白い天井に戻っていた。終わっても暫くぼうっとしていたから、楽しんでくれたのかなと思う。
出入り口を離れて混雑の落ち着いたところで、誘い出した名目が終わる。
――この後、と緊張しながら口を開いた。
「未だ時間、あるか?」
ええ、と彼女は予定調和に頷いた。
部屋の鍵を開けて靴を脱ぐ。掃除はしてある。
「これ……」
と差し出したのは赤い薔薇の花束。丁度いい分量が分からずに店員に相談して、きっと喜んで貰えると判を押された二十一輪。
ちらと手元から目を上げると変わらず微笑んでいて、ありがとうと受け取って貰えた。でも、と続く。
「花瓶はあるかしら? 泊まっていくわ」
唇に口を付けて舌を捻じ込む。
下着になるまで剥ぎ取って、シーツの上に転がす。自分の掌が泥に塗れているならその全身に肌色が無くなる迄撫で尽くした。
自分の体を対価のように差し出されたくないと貪るのを躊躇うにはもう澱んでしまった。
尽くしても尽くしても尽きることがない。
底無しに沈んでいく様を辺りで嗤って見て欲しい。彼女の代わりに沈むなら本望だ。あいつの代わりに沈めて欲しい。
クレーターのような窪みを埋める池水に雨が打ち付けられて、土砂を削りながら穴を拡げていく。雲を写していた水面は忽ち濁ってただ泥水になった。寄り道しなければ風雨に巻き込まれることも無かったと、父親に抱えられながら思ったのはいつの日か。
あんたは知らないだろうな
義理チョコレートは泥より甘く、嘘より苦い
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