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少年トールは夕日に背を向ける。
ヤモリのように、打ち捨てられた鉄塔のはしごを這いつくばって登る。
鉄塔の上の、檻の中に閉じ込められた少女を救いに行った少年トール。
少年トールは朝日を待つ。
*
少年トールが、地上から目が合っただけの塔の上の少女を救おうとするきっかけになったのは、彼の正義感だった。
少年トールは無知だったが、不法投棄の山で拾った道徳の教科書だけを愛読していた。
少年トールには親がいなかった。
少年トールには妹がいた。
少年トールは妹と一緒に引き取られた。
少年トールの妹は養父に泣かされた。
少年トールは妹を救いたかった。
少年トールは酔っ払った養父を階段から突き落として殺した。
これで妹の笑顔が見れる。
妹は死骸に泣きつき少年トールを人殺しとなじった。
壊れたのは養父だけじゃない。妹は既に壊れていた。
少年トールは壊れた心ももとに戻らないことを初めて知った。
だからトールは壊れた妹の首を絞めて家を出た。トールはそれが修理だと思った。
少年トールは何度も読みこなした道徳の教科書を抱えて家を出た。
少年トールは欠けていた。
*
放浪の果てにたどり着いた街。
トールは、道徳の教科書で得た正義感に突き動かされて、鉄塔の檻に閉じ込められた、同じくらいの少女を救おうとした。
それが、生まれた時から世界の滅びを中断させることを定められた、星でたった一人の生け贄の少女だったということを、トールが知るはずもない。
戸惑う無口な少女を強引に連れ出して以来、世界はゆっくりと滅びに向かっていった。
発狂し殺し合う人々を、鉄塔のてっぺんから見下ろし寄り添う、歪な運命のふたり。
この塔は大昔、防災無線を放送する役割を果たしていた。
外に出たところで、安全なのは結局、誰もが少女に見て見ぬふりを続けた結果、存在ごと忘れ去られたこの鉄塔の上だけだった。
少女はトールを好いた。だけどトールにそんな感情は微塵もなかった。
トールは本能のままに、かつての養父の真似をした。
少女は泣いたけど、妹のようにはならなかった。
飽きたトールは少女を突き落とした。
かつて救った少女は立つこともできず、鉄塔の真下で泣き叫んでいた。
何日かすると少女の声は弱々しく細り、やがて聞こえなくなった。
それでも、決して、本来欠けていた心の部分が埋まることはない。
ふいに少女が恋しくなったトールは、鉄塔の防災無線で呪詛を吐き続けた。
マイクに向かう枯れた叫び声が、いつまで経っても、もとに戻らなくて、トールは初めて哀しんだ。
声変わりという現象のことを、トールは知るよしもない。ただ、自分だけはずっと特別だと思っていた。
少年トールの呪詛は、ヘルツの似た鳴き声の蝉の大群を鉄塔におびき寄せる。
自ら突っ込んだはずの蝉は、やがてひっくり返って交合の時を待つこともなく力尽きる。
トールは決して塔の下を見なかった。
夏の終わりの、死にかけの蝉の断末魔が、星の終末を告げるサイレンの代わりだった。
少年トールの最期は誰も知らない。
愛も運命も知らずに、ただ教科書で唯一感銘を受けた正義という言葉に従い、足りない心を埋めたかっただけの、とある少年の孤独な叫びだけが、かつての防災無線だった鉄塔のスピーカーから、大音響として、死骸の山とともに文明の潰えたこの星を、永遠に反響し続けている。
読みこなした道徳の教科書の中でも、特にトールのお気に入りだった物語の末尾は、こんな一文で締め括られている。
【少年の犯した罪とはなんだろう? クラスの皆で意見を出しあって、考えてみよう。】
宇宙暦3184年某日 かつて地球と呼ばれた遺跡にて執筆
初出『新訂版 初等学校道徳教科書』(3184年発行)
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