第六章 かなしいおんなのこの話

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第六章 かなしいおんなのこの話

 日本中が米騒動で大騒ぎだった大正七年、わたしは生まれた。室星の家の三女だった。室星の家はこの地域一帯の地主で、庄屋の家でもあった。だからわたしはお嬢さまと呼ばれる立場だった。本来なら。 「本来、なら」  わたしは呟いた。ひとり、ほとんど陽の射さない部屋で鏡を見つめている。とてもさみしい。物心ついたころからわたしはずっとこうだ。置かれている状況には慣れたけれど、さみしいことには変わりがない。母屋の方からの家人や使用人たちの賑やかな声を聞きながら、わたしは醜い自分の顔を見つめていた。  わたしは、とても醜い。  あまりにも醜くて室星のお嬢さまと呼ばれるには相応しくない。生まれたときからわたしは父さま母さまの恥でしかない。兄さま姉さまもわたしの存在を忌んでいる、隠そうとしている。なぜならわたしがあまりにも醜いから。醜いから仕方がない、それはわかっている。わたしにはどうしようもないことなのだということも。  どうしてわたしはこれほどに醜いのだろう。わたしはなにか悪いことをしたのだろうか。前世でなにか悪いことをしたのだろうか。それはわたしのせいなのだろうか。わたしはここのつで、今までの九年間ずっと醜さとともに生きてきた。こうやってしか生きられないのならば、わたしはなんのために生まれてきたのだろう。 「たつ、たつ」  わたしを呼ぶ声がする。その声にわたしは顔をあげた。鏡を放り出す。畳から腰をあげた。 「たつ、たつ。いる?」 「はい、姉さま」  わたしは声をあげた。わたしを呼んだのはわたしのすぐ上の姉、すい姉さまだ。わたしが一番慕っているきょうだいだ。 「たつ、おいで。お願いがあるの」 「はい」  すい姉さまは美しい。背が高くて豊かな腰で、赤いおきものがよく似合う。お顔は白くて頬がふっくらして見ていて心が穏やかになる。大きくてとても優しい黒い瞳がわたしを見ている。すい姉さまは目を細めてわたしに話しかけた。 「神社にお詣りに行きたくて。供をしてくれるわね」 「もちろんです、お供させてください!」  わたしは張り切って歩き始める。わたししか供ができないひみつのお詣りだ。村の中を歩くわけにはいかないから、人目につかないところをこっそりと歩く。見られてはいけないけれどこっそり一緒に歩く、この時間はまるで秘められた仲だけに許された行為みたいでどきどきする。  わたしたちにはそれほど会話はない。次女と三女、美しい姉と醜い妹、その間で言葉をかわすことなどない。わたしは姉さまの後ろに着いて歩けるだけで満足だった。  わたしたちは、村のはずれにある沼のほとりに差しかかった。わたしが水の(おもて)を見ていると、すい姉さまが声をかけてきた。 「この沼を見るの、好きね」 「はい」  沼は、沼というにはとても広くてとても深い。絶対に入らないようにと言われている。 「おさかなが泳いでて、見てて楽しいのです」 「そう……」  すい姉さまはがっかりしたような口調で言った。わたしはいつもまわりの人をがっかりさせてしまう。わたしは誰をも喜ばせることができない。わたしと話したい人はいないし、仮に会話の機会ができてもわたしは気の利いたことを話すこともできない。わたしと話した相手はたいていがっかりした顔、つまらなそうな顔をしている。相手の期待に応えられないわたしはいつも、自分が価値のある人間ではないという気持ちに苛まれている。それはわたしが醜いからなのか、ほかになにか理由があるのか。わからない、わからない――ただわたしは人を不愉快にしないように懸命に努めるしかない。それはとても辛いことだった。  それでも、すい姉さまはわたしを受け入れてくれる。わたしの顔を見て嫌な顔をすることもない、わたしの話を遮ってわたしを無視することもない。わたしはすい姉さまが好きだ。すい姉さまがいてくれたらそれだけで生きていける。 「すい姉さま、太い枝が落ちてます。気をつけて」 「あら、ありがとう」  わたしが手を出すと、すい姉さまは微笑んで手を取ってくれた。外国の本で読んだ、男性が女性を尊重する仕草だという。わたしはどきどきしたけれど、男性になど興味はない。わたしの興味はすい姉さまにしかない。すい姉さまだけがわたしの星だ。  山の神社に着いた。鳥居の前でわたしはことさらに丁寧にお辞儀をした。すい姉さまは笑う。 「たつは、とても誠実ね」 「そう、ですか……?」  わたしの声は震えている。喜びに震えたのだ。すい姉さまに褒められた。それだけでとても嬉しい、わたしはまた頭を下げた。  拝殿に向かって頭を下げたあともすい姉さまはぼんやりと正面を見つめている。わたしはにわかに心配になった。 「今日はどうなさったんですか、すい姉さま」 「ええ……縁談があって」 「素晴らしいですね! すい姉さまならどこにお嫁に行っても歓迎されますよ」 「そう、だといいのだけれど」  すい姉さまはなぜそんなに悲しそうな顔をしているのだろうか。すい姉さまの花嫁姿なんて想像するだけで胸が熱くなるというのに。 「あなたを置いていくのが辛いわ。あの家には、私以外にあなたを気遣う者がいないもの」 「わたしは、ひとりで……大丈夫、です」  震える声でわたしは言ったけれど、すい姉さまは辛そうな顔でわたしを見るばかりだ。すい姉さまがなにを懸念しているのかわからない、でも心配をかけたくない。わたしはにっこりと微笑んだ。 「大丈夫ですわ、姉さま」 「そう? ならば、いいけれど……」  なおもその美しい眉をしかめるすい姉さまに、わたしはずっと笑みを向けていた。  すい姉さまが嫁いだのは隣村、尾下と呼ばれる地域だ。尾下の、室星の分家。すい姉さまが格下の家に嫁いだことは、わたしにとって屈辱だった。  花嫁姿のすい姉さまはとても美しかった。あまりにも美しかった。すい姉さまは長い豊かな黒髪を文金高島田に結い角隠しを被り、赤の挿し色の入った白無垢はよく打った正絹、鶴と松があしらわれている。室星の家からかたづく花嫁として申し分のない美しさだった。  わたしはみんなと離れたところから、車に乗る花嫁姿のすい姉さまを見つめるだけだった。それでよかった。醜いわたしが臨席したところで招待客の目障りになる、すい姉さまの恥になる。だからわたしは物陰からそっと見守るだけでいいのだ。  さみしいけれど、すい姉さまのため。これでいい。  すい姉さまが尾下の家に嫁いですぐ、ものすごい大雨が降った。豪雨が何日も続いて山の土砂が崩れて、泥水が濁流となって村を襲って、沼が溢れた。濁水に田畑が汚染されて作物がみんなだめになった。  よくあることといえば、よくあることだ。同じような災害の記録をわたしは読んでいた。記録と目の前に見るのではまったく違う。わたしは室星の娘だから飢えるようなことはなかったけれど、村人は苦しい生活を強いられた。食べるものに事欠く生活。わたしにできることはなにもなかった。わたしが役に立てることがあればいいのに。歯痒かった。  だから尾下から使いが来て、すい姉さまが呼んでいると聞かされたとき踊りあがりそうだったのだ。すい姉さまに呼ばれたということも嬉しかった、今まで以上に空気以下の存在だったわたしを覚えていてくれるのが大好きなすい姉さまだということがとてもとても嬉しかったのだ。  わたしは初めて、尾下の家に足を踏み入れた。わたしが通されたのは土間だった。どうにも違和感があった。わたし自身が土間に通されるのはいいけれど『すい姉さまの客』がこのような扱いを受けるというのは、すい姉さまはこの家でどのような立場にあるのだろうか。  久しぶりに見たすい姉さまは、相変わらず美しかった。わたしは息を呑んだ。それでいて少し痩せたと感じた。だからこそ美しさが増していたことにわたしは不安になった。 「すい姉さま、ご健勝のほどお見受けいたします。お慶び申しあげます」 「たつ、あなたも元気そうで……」  すい姉さまは目を細めた。わたしは土間に立ち、すい姉さまは手前の板間に椅子を置いて座っていた。すい姉さまは紬の浅黄色のきものを着ていた。鮮やかな茜色だった。  すい姉さまは、わたしに巫女になってほしいと言った。山の神社の巫女だ。先日の災害の鎮魂と、再びの災害を起こさないために。そのために巫女となって祈りを捧げてほしい。「たつにしか頼めない」と。それだけでわたしを浮かれさせる言葉だ。  すい姉さまは言った。 「あなたになら、勤められると思うの。あなたは真面目で誠実だから。神さまもあなたを気に入ってくださると思う」 「すい姉さまが、そうおっしゃっるのなら」  かしこまりました、とわたしは言った。わたしは、すい姉さまのお役に立ちたかった。わたしが巫女になることですい姉さまの尾下での立場があがるのならこれほどの喜びはない。 「ありがとう、たつならそう言ってくれると思ったの、ありがとう」 「すい姉さまのためなら」  わたしがそう言うと、すい姉さまは悲しそうな顔をした。わたしはいつも、まわりの者にこのような顔をさせてしまう。その対象がすい姉さまだなんて、わたしには耐え難い。わたしは畳に額を擦りつけた。 「すい姉さまの頼みなら、わたしはなんでもやります、身を粉にして働きます」  だから、そんな顔しないで。わたしは必死になった。そんなわたしの頭を、すい姉さまは撫でた。ほんの幼い童だったころのように、すい姉さまは何度もわたしの頭を撫でた。わたしは満たされた。今までこれほどに幸せだったことはなかった。すい姉さまが悲しそうなのが気にかかったけれど、わたしはその、すい姉さまの役に立てるのだ。  わたしは、すい姉さまの役に立てるのだ。すい姉さまだけではない、わたしは村のすべての人たちの役に立てる。嫌われてばかりだったわたしの、これが生きる道なのだ。  土間に通されたわたしは、一転して座敷に入るように言われた。この家の人はすい姉さま以外に姿を現さなかったけれど、使用人はよくしてくれた。わたしは食事を勧められた。運ばれてきた膳には美味しそうなお料理が並べられている。つやつやした白飯、三つ葉きざみと絹豆腐の赤味噌の汁もの、胡瓜と茄子の浅漬、山芋と卵を野菜のひろうす、結び昆布、いんげんの煮物、大根と人参と薄揚の胡麻あえ、ひじき、煮豆、金平牛蒡(きんぴらごぼう)。思わぬごちそうにわたしは夢中になった。飢えることはないとはいえお腹いっぱい食べられるわけではない。しかもこんなに美味しいお料理。お正月でもないのにこんなごちそうにありつけるなんて。そんなわたしをすい姉さまが静かに見ている。 「すい姉さまは召しあがらないの?」 「ええ、あなたが食べているのを見ているのが楽しいの」 「面白いことをおっしやるのですね、すい姉さまは」  すい姉さまは苦笑いをした。このような笑い方を見るのは初めてだ。すい姉さまがこんな、楽しくないのに笑うなんてことは今までにはなかった。嫁いですい姉さまは変わったのだろうか。婚家で酷い目に遭わせられていなければいいけれど。  どのような表情をしていても、すい姉さまは美しい。  わたしは干したばかりのふかふかの布団に案内された。静かな部屋で優しく深い眠りにあった中、布団から引き摺り出されてとてもとても驚いた。 「な、なに……っ?」  突然のことでまともな声もあげられなかった。わずかな月明かりの中、わたしを抱えあげた者たちの顔はわからない。大人の男たちだということしかわからない。 「いやっ、助けて、助けて!」  わたしは乱暴に猿ぐつわをかまされる。声は出せず四肢は拘束され、わたしは神輿のように担がれて夜の道を運ばれた。足もとの悪い中わたしの体は激しく揺れた。舌を噛まなかったのは猿ぐつわのせいで、だから感謝していいのかどうかはわからない。 「あっ、あっ……!」  わたしは地面に転がされた。ここは、神社への道だ。わたしが巫女として勤めるはずの神社の前で土まみれにならなくてはいけない理由が、わたしにほわからない。 「ぎゃ……あ、っ……!」  わたしは、深い深い穴の中に放り込まれた。月明かりも届かない深さ。自力で這い出すなど絶対に無理だ。ましてや穴の中のわたしを見下ろす、五人の男たちが遮っていれば。 「あ……!」  ざく、ざく、ざく、ざく。穴の中の私の上に重くて臭くて湿った土がかけられる。声を出せないままわたしは唖然と降ってくる土を見やっていた。月明かりがだんだん薄くなる。 「す、い、姉、さ、ま」  期待と誇りに身を震わせた。すい姉さまのお顔を最後に見た記憶が蘇る。あの美しいお顔の、思い出。それをわたしは土の中で思い返していた。  ざっ、ざっ、ざっ。穴の中のわたしに土がかけられ続ける。大きなシャベルを使っている男たちの顔は暗いからよく見えない。たぶん知らない人たちだ。知らない人に決まっている――そうじゃないと、耐えられない。 (そういう、こと)  神社の巫女になるということは、つまりはこういうことだったのだ。わたしがなにか役立てること、誰かに喜んでもらえるとはこんな方法だったのだ。わたしは人柱になったのだ。災害の鎮静を祈るための、人柱に。  わたしは生きていてはいけないのか、死ぬことでしか役に立てないのか。わたしの命はこの程度のものだったのか。 「すい姉、さま」  声にならない声で、呟いた。すい姉さまがわたしを裏切ったとは思わない。格下の家に嫁ぐことになったすい姉さまも辛かったのだ。わたしがその苦しみを救えるなんて、なんという幸せ――幸せなのだ、これは。でも土をかけられるのはとても嫌だった。重い、苦しい、息ができない。声をあげる力もなくなって、苦しい苦しい、そんなことしか考えられなくて、みっちりとした闇の中でわたしは朧に考える。 「お腹、すいた」 「お腹すいた……」  誰かの声が聞こえた。ぎょっとした。動いたり目を開けたり声を出したりすることはできない。でもはっきりと聞こえてくる声——土の中なのに、わたしは埋められているのに。 「お腹すいた」 「苦しいよ、苦しい」 「悲しい」 「いやだいやだ、おかあさん助けて」  わたしは手を伸ばした、つもりだった。確かになにかに触れた。土の中でなにに触れるというのだろう。わからないけれど。  わたしは触れた、なにかを掴んだ。そっと力を込めた。  ——あなたも、あなたたちも辛いのね? わたしと同じ苦しみを抱いているのね? こちらに来て、一緒にここで眠りましょう? 一緒にいれば怖くないわ。  あなたも、あなたも。あなたも辛い思いをしたのね。辛い思いをしてここにきたのね。醜いと嫌われた? あなたを踏みつけにして出世した人がいた? 騙されたのね、嘘をつかれてあなたはここにいる。  ここにいよう、一緒にここにいよう、一緒にいよう、さみしいから。みんなでいればさみしくないから。あなたなんだか、すい姉さまに似てるね。  すい姉さまは優しくて美しくて、わたしに優しい……優しいの。すい姉さまはわたしに……わたしは、すい姉さまになら。  食べるものがないの、お腹がすいた。お腹も心もからっぽ。ずっとこうなのかな、辛いね、苦しいね、悲しいね。かなしい、とてもかなしい。  ――ああ。  かわいい人形、みんながかわいがるかわいい人形。人形には、るぅって名前がつけられた。るぅってかわいい名前ね。わたしもそう名乗ろうと思うのよ。
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