第1話 富貴楼

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第1話 富貴楼

 列車の貸座布団に座りながら、山縣有朋(やまがたありとも)は窓の外を眺めていた。葉桜が初夏の来訪を告げている。時には紫陽花の青や紫も見えた。東京と横浜を繋ぐこの列車に乗るのが、山縣には新鮮だった。  戊辰戦争の最中、奇兵隊の一員として戦っていた彼は、この数年間で様変わりした世相を、列車に乗りながら思い出していた。窓の外には、馬や人力車が目立つ。  この国では文化の多くが、現在でも昔と同じままだ。特に服装は、あまり変化が無い。一部の華族が洋服を纏うようになった点しか、変化は無いだろう。  現在、三十六歳。山縣は、陸軍卿をしている。そんな彼の元に、三歳年下の伊藤博文(いとうひろぶみ)が話をしたいと連絡し、待ち合わせに指定した場所が、横浜の 富貴楼(ふうきろう)だった。  山縣も、その名前だけは耳にした事がある。元々は、陸奥宗光(むつむねみつ)井上馨(いのうえかおる)が足を運んでいたようだったが、最近では伊藤が入り浸っていると、山縣は聞いていた。富貴楼とは、会席料理屋であり、綺麗に着飾った夜の蝶――芸妓達に酌をしてもらいながら食事をする店である。伊藤の女癖の悪さは有名だ。  愛妻家の山縣は、二十九歳で結婚してから、(めかけ)を持った事は、ただの一度も無い。十三歳年下の妻である友子(ともこ)と出会ったのは、山縣が二十七歳の時だ。以来二年間彼女の父親を説得し、友子が十六歳になる年に結婚した。  話をするだけならば、お互いの家や別荘でも構わない――とも考えたが、山縣は気にかかる事もあって、列車に乗る事を選んだ。決してそれは、伊藤との会談で妻に心配をかけたくないという理由だけでは無かった。  奇兵隊に属していた頃より、山縣は密偵を飼っている。情報の重要性を、山縣は非常によく理解していた。それらの者が、富貴楼の名を持ってくるようになったのは、ここ最近の事だった。 「……」  気になる事は確かめる神経質さと几帳面さを持ち合わせている山縣は、最初こそ、『伊藤の女遊びが始まった』と考えていたが、井上や陸奥、三菱の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の名前を度々耳にする内に、ただ遊び歩いているだけではなさそうだと、いつしか考えるようになっていた。
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