第1話 富貴楼

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 列車を降りて、人力車に乗り、店まで向かった。横浜という街は、四・五年ほど前に山縣が渡欧していた頃の記憶を彷彿とさせる。潮風に髪を擽られながら、懐かしく思って山縣はゆっくりと瞼を伏せた。  店の前に立つ頃には、日が落ち始めていた。夕暮れの中で見る不夜城のごとき富貴楼は、その影を大きく見せている。客達が、物珍しそうに、地を踏んだ山縣を見ていた。山縣は周囲を一瞥してから、小さく俯く。視界に、知り合いの姿は無かった。 「ようこそおいで下さいました、山縣陸軍卿」  しかしすぐに玄関の扉が開き、ずらりと並んだ芸妓達の中から、女将が前に出て声をかけてきた。内心で狼狽えた山縣は、表情でこそ平静を装いながら、改めて女将を見る。名前だけは、密偵達から聞いていた。  ――富貴楼の、お(くら)。  山縣は背の高い方であるが、お倉もまた、女性にしては背が高い。見下ろしながら、山縣は無意識に右手の人差し指で、乾いた唇を撫でた。長く無骨な山縣の指先を、お倉が目で追う。それから彼女は、穏やかに微笑んだ。  猫のように大きな瞳が、優しく細められている。長い睫毛は、白磁の肌に影を落とすようで、眉も形が良い。繊細な輪郭に、まるで人形細工のごとく美がはめ込まれている。  年の頃は二十代には見えなかったが、老いは感じられない。そこにあるのは、壮絶な艶と色気であった。ある種の迫力がある。 「お倉と申します。お見知りおき下さいませ」  名乗った女将は、山縣の脇に立つと、恭しく頭を下げた。圧倒されていた山縣は、彼女が顔を上げた時、正面から目が合って息を飲む。今度は、お倉の顔に可憐な笑顔が浮かんでいたからだ。今度こそ、年齢不詳だと感じてしまう。心を掴まれるような表情に、胸が騒がしくなった。当初の作り物めいた美が、いきなり少女のように愛らしく変化したものだから、表情からだけでは印象を固める事が出来なかったのだ。  ――面白い。  山縣は慎重な質をしていたが、咄嗟にそんな印象を抱いた。店の男衆や芸妓達が、すぐに山縣を取り囲み、お倉は先に歩き始める。妖艶なうなじを見ながら、山縣もまた一歩前へと踏み出す。こうして山縣は、富貴楼の中へと入った。 「伊藤に会いに来たんだが」
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