愛に似た熱病

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 わたしが服を着るのは彼女に脱がされるためなんじゃないかとよく思う。服を着ているわたしと裸のわたし。どちらが本当のわたしなのかと考えてしまう。表が裏になって、裏が表になるような感覚。どちらもわたしでそれが正しいことには違いないのに、表のわたしが正しいわたしで、裏のわたしは正しくないと思い込んでしまう。そしてどっちがどっちのわたしだかわからなくなる。    彼女のガラス細工のように繊細で細い指に下着の上から触られはじめて、おへその下あたりを中心に熱が渦を巻くようにして広がる。脳は目を回した蜻蛉のように機能を失い、色んなことがどうでもよくなる。   「ねえ、さっきまで一緒にいたのだれ?」    彼女は左手でわたしの目を隠して、耳もとで囁く。低く震える喉の音まで聞こえた。わたしは閉ざされたまぶたの中で彼のことを想像した。   「か、彼氏です」   「知ってる。でも彼氏は知ってるのかな。こんなことになってるの」    すっと彼女の指がわたしの中に入ってきて、押し出されるように中指一本分の声が出た。全身はちぐはぐに力が入り、反射的でデタラメな電気信号に体が反応する。   「私の質問の答えは?」   「し、知らないと、思います」    彼女はわたしの目隠しを外さない。だからわたしはずっとまぶたの裏に映る不鮮明な映像を眺めていた。そこには服を着た彼女がいて、その少し遠くにコンビニで買い物をする彼がいた。彼も服を着ている。それから彼は振り返るようにしてわたしを見るけど、その表情は陰になってわからない。   「彼氏には私のことをなんて言ったの。今日私と会うことは伝えたでしょ」    口を使ってブラジャーを上にズラされて、そのまま彼女はわたしの胸に唇をつけた。小鳥がついばむように何度も。キスしたところを強調するかのように小さな種を植えらて、わたしはそれが根を張っていくのを感じていた。   「と、友達」   「そう。嘘じゃないわね」    渦巻いた熱を吸い、わたしの裸の胸の上で細く赤い花が咲いていく。自分の体は目を閉じていたってありありと想像することができた。リアリティがあるのはわたしの裸体だけで、他の部分は下手な合成映像のようだった。    熱が足の先から脳まで伝わって、そんな映像すら感知できなくなると彼女は目隠しをやめて、わたしの唇にキスをした。   「すき。美葉」    わたしが果てると彼女は額にもう一度キスをして、目の中の光をぎゅっとに包むように笑った。その表情が何とも刺激的でいったばかりだというのにわたしの背骨を撫でた。   「男女の関係ってセックスに始まって、セックスに終わると思うの」    まだ息が熱く、脳は心地よく疲労していた。わたしを裸で寝かしたまま、彼女はかまわず話し続ける。   「私たちの関係って何なのかしら」    わたしは彼女の長く切りそろえられた美しい髪を見ていた。ここまで黒く、艶やかな髪をわたしは知らない。   「先輩もそういうこと考えるんですね」   「幻滅した?」   「幻滅はしないですけど、少し意外に思っただけです。それに嬉しかった」    彼女は不思議そうな顔をして、片肘をついて横になった。   「どうして?」   「わたしも考えたことがあるから」   「それで……答えは出たの?」    彼女はわたしのお腹の上で、子供が手遊びをするように人差し指と中指を使って歩く真似をした。彼女以外の誰かに同じことをされたら、くすぐったくてすぐにやめさせていただろう。   「出ないです。だから辛いんじゃないですか。でも今日は先輩が同じって知れて、ひとつ救われました」   「……そう」    小さく渦巻いたつむじ風がふわっと次の瞬間には消えている。彼女の表情や言葉はそんな風景をイメージさせた。   「私が言うことじゃないけど、やっぱりいけないことだわ」    前触れもなく彼女はそう言った。ずっとしまいこんできた言葉を心からようやく外へ晒すことができたという言い方だった。こんなに弱気な彼女を見たのは初めてだった。ケホ、と彼女は小さく咳をした。その咳はわたしに大病の患者を思わせた。   「わたしは、先輩が別れてほしいと言えば、たぶん彼と別れると思います。この関係が二股だとか罪悪感があるからとかじゃなくて、わたしにとって先輩はそういう人なんです。彼よりも大切な人なんです」   「ねえ、私はレズビアンなの。そういうのってどうしようもないのよ」   「知ってます」   「でもあなたは違うわ」    ピシャリと扉を閉められたような感覚だった。『でもあなたは違うわ』わたしは何度かその言葉を口の中で咀嚼してから飲み込んだ。なんて寂しい言葉なのだろう。極寒の中、二人で震えながら「でもあなたは死なないでしょう」と言われたような気分だった。   「あなたに迷惑をかけたくないのよ」    と彼女は続けた。   「迷惑だなんて思ってません。わたしは先輩が好きだから一緒にいるんです」   「そうね。言い方を間違えたわ。後悔してほしくないの。学生時代の気の迷いで」    気の迷いですって! とわたしは叫びそうになった。でもそれでは先輩の思うつぼのように思えた。彼女はわたしを怒らせようとしているのだ。   「先輩、今日なんだか変ですよ。顔色も悪いですし」   「そうね。ほんとにらしくない」    彼女はそう言ってまたベッドの上に座り、頭痛がするときのように人差し指の関節でこめかみを抑えた。寝転がりながらわたしは彼女の横顔を眺めた。首筋からあご、そして鼻のラインが滑らかにひとつの線で繋がっている。彼女は自分自身の体のことをどう思っているのだろう。わたしはいまだに彼女の裸を見たことがなかった。ただ容易に想像できるその美しい体を持っていても、悩みというものはあるのだとわたしは悲しく思った。    彼女は深く息を吐いて、ベッドの上に散らばるわたしの服をひとつひとつ指先でいじっていた。毛先を弄ぶように無意識的に。そしてまた何かの合図のように小さく咳をした。   「終わりのない関係には必ず終わりが来るわ。神様がこんがらがった糸を解きに来るのよ」    彼女はわたしの服や下着を丁寧にたたんでいた。彼女が散らかった服を手に取る度にわたしのテリトリーが減少していくような気分になった。たたみおえた服をひとつにまとめると、今度は自らの服を脱いでたたみ始めた。シャツを脱ぎ、キャミソールを脱ぎ、それからスカートまで脱いで、彼女は完全な下着姿になった。   「だから関係には終わりを設けないといけないの。友達を終わらせなきゃ、恋人になれないように。ねえ、美葉、あなた本当にわたしに?」    わたしは体を起こして、自らの唇を彼女の唇に押し当てた。彼女の唇はいつまでも冷たく濡れていた。    ***    わたしはこの次の日、酷い風邪をひいた。熱が38度まで上がって指の一本すら自由に動かすことができなかった。    あの日――わたしと先輩が抱き合った日以来、彼女はわたしを避けるようになった。LINEはブロックされ、大学構内でも見かけることが全くなくなった。同じサークルの友人たちに聞いても答えは同じだった。    彼女の大学卒業の日に、一度だけわたしは彼女を見ることができた。しかしそれは幻影だったのかすぐに見失ってしまった。    彼女が最後にわたしに言った「これからもよろしくね」は一体どういう意味だったのだろう。ただわたしを安心させるためだけの嘘だったのか。でもそんな風には見えなかった。その言葉を聞いて、わたしもそして彼女もとても幸せな気持ちになったのだから。    ***    それから5年が経って、大学時代の友人たちとご飯を食べたとき先輩の名前が話題に上がった。わたしのひとつ歳下の後輩が「そうえば知ってますか」とレタスにフォークをさしながら口にした。   「××先輩、死んじゃったらしいんですよ」    口にした彼女以外誰もそのことを知らなかったらしく、テーブルが異様な空気に包まれた。   「美葉、知ってた? 一番仲良かったよね」    わたしは首を横に振る。    先輩とはあれ以来会うことはできなかった。    3年ほど前に一度だけ彼女から連絡が来たことがある。結婚式の招待状が届いたのだ。相手は同じ会社に務める3つ歳上の男性だった。    どうして今さら、とわたしは思った。何かの当てつけだろうか。しかし、もしそうならそれは一体何に対する当てつけなのだろう。彼女の結婚を素直に祝いたい気持ちもあった。でも結婚式になんて行ったってどうせ虚しくなるだけだと思った。    結局わたしは出席すると連絡したのだけれど、前日にまた酷い風邪をひいて、結婚式には行くことができなかった。   「先輩、自殺したんだって」    周りの目を気にしながら囁くような声で彼女は言った。   「どうして?」   「わからない」   「先輩って結婚したばかりだよね」   「旦那さんも良い人そうだったけど」   「仕事も順調そうだったよね」   「ね、ほんとにどうしてだろう」   「でも先輩って昔から自分の内側で色々と抱えがちだったよね」   「確かにそうだったかも。なんて言うか悩みとかそういうの全部自分で解決するって感じ」   「やっぱり何か悩みがあったのかな」   「相談できなかったのかな。旦那さんも仕事で忙しそうだったし」   「私、先輩みたいな人生を歩みたいって思ってたんです。だから本当に悲しいです」   「そうだね……ってねえ、美葉、大丈夫? すごく顔色悪いけど」    その日の夜に先輩の夢を見た。   「ねえ、美葉。運命の人ってあなたは信じる?」    懐かしいあのころのベッドの上。彼女は真っ白なワンピースを着てわたしの横に座っていた。   「その人が運命の人かどうかなんて、その瞬間にはわからないわ。でもね、美葉、よく聞いて。忘れることができない人が運命の人なのよ。思い浮かべてみて。何人かいるでしょう」    ふふっと彼女は笑って、わたしの額を指先で撫でた。いい子ね。大好きだわ。   「別れても忘れられない人はね、出会うことがあらかじめ決まっていた人なのよ」    彼女は額を撫でていた指先をわたしのまぶたまで下ろし、わたしの目を隠した。   「ねえ、あの日、私の風邪、うつらなかったかしら。あなたよく風邪をひくでしょう。私の結婚式の日だって風邪をひいたじゃない。私、次の日にあなたの部屋――」    夢はここで終わった。    調べると彼女が亡くなってからもう1ヶ月近く経っているようで、先輩が最後にわたしに逢いに来たとは考えにくかった。だからこの夢は全部わたしの妄想なのだろう。頭が軋むように痛かった。額をさわると熱があるようだった。  
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