3 同じマウンド

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「怖い? ドラ一と育成八位だぞ? プロ成績も雲泥の差だろ」 「確かにお前は中学の無名校でベンチ外だった。ドラフト指名の順番は百人以上の差があった。それが今では日本シリーズでマウンドに立てる一握りの投手の一人だ」 「まあ……そうだけど。十年で百勝した織原には一生追いつけない」 「河瀬がすごいのはさ、どこのステージでも一番下で、でもいつも最後まで残るんだ。中学でも高校でもプロでも。俺は確かに一番で走り続けた。でも、いつかは一番から滑り落ちる。いや、もう落ちかけているんだ。そんな時、いつまでも落ちずに後ろから追ってくる奴がいる。逃げる人間にとっては恐怖でしかないよ」  僕が恐怖。どういう意味だ。 「ま、それは与太話だ。きょうは絶対負けない。これからもよろしくな」  織原は、そう言ってウインクした。  試合は織原が快投。タイガースは継投策でしのぎにしのぎ、無得点で終盤までもつれたが、八回二死満塁でついに中継ぎが足りなくなり、僕がマウンドに立った。  織原と投げ合う初試合が、甲子園の日本シリーズとは奇縁だった。ボール先行の苦しいカウントで、イーグルスの四番が僕のスライダーを打ち損ねた。  その裏、我慢の投球をしていた織原が痛恨の被弾。九回は守護神投手が三人で抑え、タイガースが日本一になった。  タナボタの優勝勝利投手となり胴上げされる僕を、織原がうつろな瞳で見つめていた。十年前のドラフト、僕はあんな目をしていたのか。  織原に勝った気はしなかった。僕はたった五球。織原は百三十四球、八回完投の敗戦投手だった。           ◇  翌年、織原は三勝しかできず、オフに早すぎる引退を表明した。プロ通算成績は百三十五勝四十九敗。すぐにジャイアンツの三軍投手コーチになり、二軍、一軍と順調に出世道を登った。  その間、僕は貴重な左腕ワンポイントとして、なんだかんだでタイガースに二十年お世話になり、最終戦で引退登板もさせてもらった。中継ぎ専門らしく通算成績九勝二十六敗。 「育成出身、プロ在籍二十年で一ケタ勝利も珍記録だろう。その河瀬の数少ない勝利の一つが高校同期の織原と投げ合った日本シリーズ最終戦。記録に残らないが虎ファンの記憶に残る投手だった」  翌日の梅田スポーツの記事を、少しだけ誇らしく思った。
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