17人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
「織原は声に張りがないな」
「まあ、体調が少しね。今季優勝したらジャイアンツを退団する」
「なぜ?」
「勝つだけでつまらない野球、と罵られるのにも疲れた。ちょうど日本代表監督の話も来たから勇退することにした」
球団も自分も傷つかない交代劇。それでまた僕の夢を奪う気か。
「ただ給料は激減する。妻に話したら若い実業家とドバイに逃げた」
「え? 結婚会見で相思相愛だったよな?」
「最初からハニートラップさ。目的は球界エース妻の肩書とお金。チームに迷惑かけられないから俺からシリーズを辞退してあんな会見にした。恵ちゃんにも悪いことをした」
乾いた笑いが話口に響く。
「俺のことはいい。河瀬が電話するなんて、よほどの話じゃないのか」
ここで金の話はタイミングが悪すぎる。だけど次にいつ切り出せるかわからない。腹をくくり、みじめな窮状を訴えた。
「恵ちゃんと子どもを養うために店を持ちたいが、資金が足りない」
「店? 何の店だ」
「お好み焼き屋だ。それしか思いつかなかった」
織原が、なぜか黙り込んだ。押し殺したような呼吸音だけが聞こえる。一分あまりの沈黙をどう破ろうかと思った時、
「いくらだ?」
低くて、また乾いた声が聞こえた。
「二百万。利息含めて二人で何年かかっても返す」
「元本返しでいい。口座を教えろ」
「……ありがとう」
「気にするな。またいつでも連絡してくれ。これからもよろしくな」
いつもの決まり文句で、織原は電話を切った。
次の週。僕の通帳に五百万円が振り込まれていた。
その金を元手に、予定より好物件で人通りが多い商店街角地を借り、小さなお好み焼き屋を開いた。
店は虎酔と名づけた。昼は恵ちゃんが店番で小中高校生相手、夜は少年野球指導を終えた僕と二人で酔客とタイガース談議をした。
客は少しずつ増え、チームは少しずつ勝ち、月謝と店の売り上げで生活した。五年で借金を完済した日、日本代表監督の織原はアメリカを破って優勝し、異国の球場で胴上げの映像が流れていた。
最初のコメントを投稿しよう!