4 離れる世界

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「織原は声に張りがないな」 「まあ、体調が少しね。今季優勝したらジャイアンツを退団する」 「なぜ?」 「勝つだけでつまらない野球、と罵られるのにも疲れた。ちょうど日本代表監督の話も来たから勇退することにした」  球団も自分も傷つかない交代劇。それでまた僕の夢を奪う気か。 「ただ給料は激減する。妻に話したら若い実業家とドバイに逃げた」 「え? 結婚会見で相思相愛だったよな?」 「最初からハニートラップさ。目的は球界エース妻の肩書とお金。チームに迷惑かけられないから俺からシリーズを辞退してあんな会見にした。恵ちゃんにも悪いことをした」  乾いた笑いが話口に響く。 「俺のことはいい。河瀬が電話するなんて、よほどの話じゃないのか」  ここで金の話はタイミングが悪すぎる。だけど次にいつ切り出せるかわからない。腹をくくり、みじめな窮状を訴えた。 「恵ちゃんと子どもを養うために店を持ちたいが、資金が足りない」 「店? 何の店だ」 「お好み焼き屋だ。それしか思いつかなかった」  織原が、なぜか黙り込んだ。押し殺したような呼吸音だけが聞こえる。一分あまりの沈黙をどう破ろうかと思った時、 「いくらだ?」  低くて、また乾いた声が聞こえた。 「二百万。利息含めて二人で何年かかっても返す」 「元本返しでいい。口座を教えろ」 「……ありがとう」 「気にするな。またいつでも連絡してくれ。これからもよろしくな」  いつもの決まり文句で、織原は電話を切った。  次の週。僕の通帳に五百万円が振り込まれていた。  その金を元手に、予定より好物件で人通りが多い商店街角地を借り、小さなお好み焼き屋を開いた。  店は虎酔(こすい)と名づけた。昼は恵ちゃんが店番で小中高校生相手、夜は少年野球指導を終えた僕と二人で酔客とタイガース談議をした。  客は少しずつ増え、チームは少しずつ勝ち、月謝と店の売り上げで生活した。五年で借金を完済した日、日本代表監督の織原はアメリカを破って優勝し、異国の球場で胴上げの映像が流れていた。
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