1:キツネの君

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1:キツネの君

 ラクナス・サマルカンドは有名人だ。良くも悪くも。  双界(そうかい)大戦以前の彼は、文武両道・眉目秀麗・清廉潔白・公明正大な、どこへ出しても恥ずかしくない次期公爵家当主であった。  つまりはやっかみ由来の中傷とすら無縁の、いわゆる「持っている人間」、「人生の勝者」だったのだ。  ここまで完璧超人だと、嫌味すら言えなくなるのが人の常である。  また彼自身、それは自覚していた。  だからこそ周囲の期待に応えんと、更なる自己研鑽に励んだ。そして、より一層正しい人間であろうと己を律していた。  完璧超人な上、努力家でもあったのだ。  大戦以前の彼は優秀な人柄に相応しい、素晴らしい家族と婚約者と、そして友人に囲まれた、幸せの体現者であった。  それなのに。 「見て、『キツネの君』よ……」 「嫌だわ、恐ろしい」 「声をかけられたらどうしましょう……」 「誰が呼んだんだ、あの疫病神を」 「仕方がないだろう……タージ伯爵はサマルカンド子爵と、古くからのご友人なんだから」  現在の彼は、舞踏会という煌びやかな場に不似合な、黒い囁きに包まれていた。  囁き声が持つ毒素で、息が詰まりそうになる。  大戦終結から現在まで、無数の悪罵に晒されて来た。だから、慣れたつもりではある。  つもりではあるが、全く落ち込まないわけではない。  気分が下降するとつい、頭部から生えた耳──呼び名の通り、それはキツネの耳そのものだ──がペタリ、と折りたたまれるように後方へ倒れた。  無表情を装っていても、獣の耳は恐ろしく正直者であった。 「あ、動いたわよ、お耳が」 「本当に生きているお耳なのね……まるで、悪魔のよう」  悪魔。  それこそが数年前まで人間が争っていた存在であり、ラクナスの体をこのような、奇天烈な存在へと「転化」させた張本人である。  その優秀さ故、双界大戦においてもラクナスは重要人物であった。  彼の存在を危険視した悪魔たちは、彼を拉致した。そして自軍の兵士とすべく、異形の存在へと作り変える「転化の儀式」を行ったのだ。  キツネの異形となったラクナスは洗脳され、悪魔たちの尖兵として数多の人類軍を殺害した。  そして終戦間近に捕縛され、洗脳も解かれ、現在に至っているのだ。  しかし生き恥としか評せない現状を鑑みると、それが良かったことなのか、彼にも未だ分からない。  同胞殺しを行った彼が今も処刑されずに、また暗殺されずに生き延びているのは偏に、大戦以前の功績と、実家の影響力に因るところが大きい。  もっとも現在の彼は廃嫡され、サマルカンド子爵でしかないわけだが。  自分の半生を振り返り、ますます落ち込んでしまった彼は、出来るだけ目立たぬよう壁際へと移動する。歩く度、一つに束ねた金褐色の髪が左右に揺れた。  転化して以来、俯いて歩くことが多くなっていた。こんな歩き方では正装も台無し、と頭では分かっているものの、他人の視線が怖いのだ。 ──さすがは武門の誉れたるタージ家。タイルの柄も、質実剛健なんだな。  床をにらみながら、しばし現実逃避をする。  ただ一人残った友人である、タージ伯爵主催の舞踏会だからこそ、屋敷から這い出て来たわけだが。  やはり、来るべきではなかったのかもしれない。  友人に挨拶をしたらすぐに暇を告げよう、とラクナスは心に決めた。  タージ伯爵を探そうと周囲を見渡した彼の耳に、また違う囁き声が届いた。  人の耳の代わりに与えられた獣耳は、集音能力に優れているのだ。 「あら、クレムリン男爵だわ」 「養子に迎えられたご令嬢が先日、社交界デビューを果たされたそうね」 「そのご令嬢が、とても見目麗しい方なんですって」 「まあ、素敵!」 「ええ、一度お会いしてみたいわ」  色めく女性たちの会話には、聞き覚えのある名前が紛れていた。  クレムリン男爵とは、大戦以前に何度か顔を合わせたことがある。  たしか一人息子が随分と変わり者で、家を飛び出して以来行方知れずだったはずだ。  なるほど、養女を迎えることにしたのか、とラクナスは密かに納得する。  そして視線を斜め前へ向けたところで、一人の少女と視線がかち合った。  鮮やかな深紅の髪と瞳を持った、美しい少女だった。  瞳の色と合わせたであろう、細い首を彩るガーネットの首飾りすら、その輝きの前ではちっぽけな石コロに見えた。  彼女とばっちり目が合ったため、条件反射でラクナスは微笑んだ。  笑った直後、自分に微笑まれても空恐ろしいだけか、と後悔が後追いして来た。  だが、 「素敵なお耳ですね」 怯える素振りも見せず、金糸で彩られたドレスを揺らし、少女は微笑み返してくれた。  そして、さして大きくもない声が、上品な笑い声と上っ面の会話に包まれていた場に、重苦しい沈黙をもたらす。
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