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10:帰り道とキス
ティルウスの熱心さに、ルビアンも武神も怯えてしまう一幕があったものの、顔合わせはその後、和やかに進んだ。
いや、むしろ和気あいあいとし過ぎるあまり、ラクナスは蚊帳の外であった。完全に。
うら若き美少女がクラブを訪れることなど、ほぼ皆無なためだろう。
ティルウス以外の参加者も皆、ルビアンを歓迎してくれた。ラクナスに怯える、新入り組も含めてだ。
その結果、夫であるはずの彼をそっちのけで、ルビアンを中心に筋肉の輪が出来上がっていた。
夫としてそういった場合、周囲をたしなめるべきなのかもしれない。
だが、ここ数年ですっかり人間不信になったラクナスは、その輪に飛び込む勇気がなかった。
楽しそうな会話を中断する権利が、キツネの君にあるとは思えなかったのだ。
ラクナスは、和気あいあいの筋肉ドーナツを横目で窺いつつ、一人黙々と剣を振ることしかできなかった。
そのため現在、帰りの馬車の中で、ラクナスは少々拗ねていた。
恋愛結婚ではないので、嫉妬というよりも拗ねる、が的確な表現であろう。
自分が連れて行ったのに、自分だけ捨て置かれた状況が面白くなかったのだ。
また、仮にも人妻に対して、馴れ馴れしい距離感も不服であった。
──前言撤回だ。嫉妬もしている。みっともないことに。
もちろん紳士であるラクナスは、それを顔に出すことはなかった。
ただ、
「……ルビアン嬢?」
「ラクナス様。今、ご機嫌斜めですよね?」
「何を、根拠に」
「お耳が、横に寝てます。怒っている猫ちゃんと、同じ耳ですよ」
向かいの座席から、じっと彼を見つめるルビアンにそう指摘され、慌てて正直者の耳を押さえるも遅かった。
なにせ、ばっちり見られた後だ。
それにこうも慌てては、図星だと言っているようなものである。
ラクナスはつい、居心地の悪さで口を引き結ぶ。
「機嫌を損ねている、というわけではない」
「ですが、元気もありません。どうしました?」
「どうもしていない」
つい、突っぱねるような口調になる。言ってからしまった、とポーカーフェイスの下で慌てる。
常に正しくあろうとするラクナスだが、その清廉潔白な生き様が悪いのか、口調が厳格になり過ぎるきらいがあった。
それで何度か、かつての婚約者を泣かせてしまったこともあるのだ。
号泣する元婚約者に本で乱打された記憶がよみがえり、知らず知らずの内に、彼の顔は引きつった。
だがルビアンが、その程度で泣き出すわけもなく。
彼女は向かいに座るラクナスへ、身を乗り出したかと思うと。
不格好な表情を作る頬に、そっと口づけを落とした。
硬直するラクナスをよそに、ちゅ、と可愛らしい音を残して唇は離れていく。
未だ、彼女と清い結婚を貫いている彼は、大いに動揺した。不格好を通り越し、無様なまでに顔が引きつる。
「なっ……君は、一体、何を考えているんだ!」
「ご機嫌取りです。ばあやさんが、男は甘えればイチコロだと」
「ばあやめ!」
色恋沙汰が大好きな老家政婦の姿を思い出し、ラクナスは歯ぎしりした。
「ところで、ご機嫌取りは成功ですか?」
照れなど一切感じさせず、好奇心で目をきらきらさせ、ルビアンはラクナスの顔を覗き込んだ。
子どものようにあどけない、純真無垢な表情を見ていると、毒気も抜けてしまう。
「……ああ、そうだな。大成功だよ、ありがとう」
「どういたしまして」
屈託なく笑う彼女につられ、ラクナスも微笑む。
先程まで車内に流れていた、どこかぎこちない空気が払拭されていく。
穏やかさがよみがえった馬車の窓から、何の前触れもなく、炎が噴き出した。
ラクナスはのけぞり、それを避ける。
「また神託か!」
「ですね」
本日二度目のため、肝は冷えたものの、一度目ほどの動揺はなかった。
瞬きをする間に炎が消えた窓ガラスの表面は、うっすらと煤けていた。
煤で書かれているのは、例の丸文字である。
『子供はいつ出来るの? 一人、我輩の宮殿で召し抱えたい』
宮殿とはつまり、天界にある武神の屋敷というわけだから。
「あの、そういう営みはまず、お互いを深く知ってからで……いや、そもそも、営む前から死を望まれても困ります!」
人間が天界に召し抱えられる、ということはつまり、そういう意味になる。知らず馬車の天井をにらみ、ラクナスは悲痛に叫んだ。
つられるようにルビアンも、視線を上へ向ける。
「そうですよ、おじいさん。ラクナス様が先にそちらへ向かうと思うので、それで我慢してください」
「そういうことは、もっとオブラートに包んで言ってくれ!」
新妻からは、自分の死を望まれてしまった。
順番としてはその通りなのだが、傷つかないわけではない。
ラクナスはほんの少し、涙ぐんだ。
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