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11:逃亡悪魔
それはアンリルにとって、またとない好機であった。
目の上のたんこぶであるラクナスが不在で、魔王よりも恐ろしいその嫁は、散歩に出ていた。
二人が不在の際、年寄り使用人コンビの監視の目が緩むことは、以前に彼らがクラブへ出かけた際に確認済みだ。
どうやらアンリルの外見が子どものため、孫のように思っているらしい。本当は、彼らよりも年長なのだが。
逃げるなら今しかない、とアンリルは庭掃除を買って出るふりをして、そのまま遁走した。
未だ神の加護が取れない状態のため、魔界に帰る術はない。
しかし人間界でも、あの夫婦にこき使われるよりはもっと、好待遇の条件で居候できる居場所があるはずだ。
人間にとって、悪魔は大戦時の宿敵である。
だがその一方で、人間よりも高度な魔術を操る彼らと、契約したがる堕落しきったダメ人間は数多いるのだ。
新天地に想いを巡らせ、ニヤニヤと笑う彼であったが、誤算が二つあった。
一つ、武神の加護のため、現在のアンリルはその高度な魔術──たとえば、付近一帯を知覚するような代物だ──が扱えないこと。
二つ、毎月ラクナスの居住区しか訪れていなかったので、旧王都の土地勘がほぼないこと。
結果としてアンリルは、道に迷っていた。
人間どころか、野良猫にすら出くわさない体たらくである。
ついでに言えば既に息が上がり、疲れていた。悪魔という生き物は、高い魔力に反して運動能力や体力が低いのだ。
なお、この身体的特徴が敗戦の理由でもある。何故戦争を挑んだのか。
「なんなんだよ、ここっ。ぜってー廃墟じゃねーか!」
こんな場所に住んでる人間の気が知れない、と彼は地面を蹴った。
ラクナスが聞けば、眉を潜めて小言を言いそうな台詞である。
むくれる少年悪魔(外見上)の尖った耳にその時、話し声が聞こえて来た。やや低めの、男性の声のようだ。
「おっ、ラッキー」
くよくよ考えないお調子者の彼は、能天気にその声へと駆け寄る。嫌なぐらいに聞き覚えのある声だと、少し考えれば気が付いたはずなのだが。
やはり悪いことは、するものではない。
彼が辿り着いた先にいたのは、ラクナスだった。武神の加護は今も、順調に機能しているようである。
「やべっ」
アンリルは、慌てて廃墟の陰に隠れる。幸い、彼はこちらに気付いていなかった。
物陰からそろりと窺うと、ラクナスは使い古された本を片手に、粗末な机に向かう子供たちへ何かを語っている。
青空教室、と呼ばれるものだろう。ご丁寧に黒板もある。
「けっ。お貴族様だってーのに、酔狂なことで……」
朗々とした口調で教鞭を振るう彼へ、うんざり顔でアンリルが呻く。
悪魔にとって彼のような清い人間は、非常に扱い辛い、苦手な人種である。
だからこそ、異形への落とし甲斐もあったわけなのだが。
キツネ耳の教師の言葉に、知識に飢えている子供たちも、熱心な様子で聞き入っていた。
ますます、悪魔の居心地が悪い空間である。
おえっ、とアンリルは吐き気を催した。
「そんな態度を取るもんじゃないですよ。ラクナス様は、酔狂だけでやってるわけじゃないんですから」
不遜な態度の彼を、どこからともなく現れたルビアンがたしなめる。
彼女の方へと振り返り、アンリルは鼻で笑った。
「酔狂じゃねーか、どう見たって」
「旧王都は、あなたたちとの戦争でめちゃめちゃになって、学校もろくに機能していないんです。だから週に四日、ラクナス様が無償で、臨時の教室を開かれてるんですよ」
使用人なのにそんなことも知らないのか、と赤い瞳は少し冷ややかだ。
責める視線に、アンリルはまた居心地の悪さを覚える。
その後も、この少女は本気でラクナスに惚れているのか、訊いてもいないのに彼の功績を滔々と語る。
曰く、残りの三日は街の復興整備に尽力していること。
御自ら建築学も学び、職人の元へ足繁く通っていること。
また自身が所有する鉱山の利潤も、ほぼほぼ復興整備に充てているとのことだった。
吐き気どころか、本気で嘔吐したくなる、完全無欠の貴族ぶりだ。
悪魔の彼からすれば、異常者でしかない。
いや、人間から見ても常軌を逸しているはずだ。
「立派ですよね。なんだか貴族の鑑みたいで、私も嬉しいんです」
しかし当の妻は、言葉の通り誇らしげに笑う。やはり、本気で惚れているらしい。
「どうりで貴族様にしちゃあ、みみっちい食生活だと思ったよ」
質素倹約が鼻についていたアンリルは、捻くれた笑みを浮かべた。
「逃げ出したあなたが、食生活をどうこう言う権利なんて、ないと思うんですけど」
突然、ルビアンの声の温度が下がった。
そして忘れっぽい悪魔は気付く。自分は逃亡を図っている途中だったのだ、と。
「あ……」
「忘れてたんでしょう? 自分が逃亡中だってこと」
アンリルの頬を、一筋の汗が伝う。
「へへへ……あの、ひょっとして、奥サマってば……」
「はい。あなたが逃げ出した、とじいやさんから聞いたので探しに来ました」
にっこり、とルビアンが笑う。しかし目が完全に据わっている。
──あ、死んだわ、オレ。
アンリルは瞬時に、そう悟った。
「歯ぁ食いしばれェッ!」
ドスの利いた気合の叫びと共に、レースの手袋をはめた拳が、アンリルの視界を覆う。
その後、付近一帯に彼の大絶叫が響き渡った。
恐怖と苦痛にまみれた、聞く者をぞっとさせる声であった。
事情の分からぬラクナスと子供たちは、その悲鳴に当惑し、怯えたという。
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