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13:真夜中のキツネ
夫婦の寝所が別々である最たる理由は、「お互いをまだ知らないから」ではない。
その理由は、屋敷の間取りに潜んでいた。
ラクナスの寝室は、屋敷の二階の最奥にある。
角部屋で日当たりが良いから、というのもその部屋を気に入った理由であるが、最大の理由は「他の部屋から離れているので、物音を立てても迷惑にならない」ためだ。
隣接する部屋は書斎のため、ルビアンが寝起きしている客間からも距離がある。
だから夜半、どんな物音を立てても、他の者に聞こえることはまずない。
そう、たとえ悪夢にうなされ、叫んだとしても。
今夜もラクナスは、叫び声と共に飛び起きる。
「ああ、まただ……」
そして己の両手を見下ろし、低く呻いた。嘆きは顔を覆う、体毛に覆われた両手に吸い込まれていった。
今やラクナスの姿は、人ではなかった。
悪夢への恐怖がそうさせるのか、うなされて起きた後は必ず、半人半獣のキツネの異形へと変貌しているのだ。
その姿はかつて、人類軍を震撼させた騎士そのものである。
悪夢にうなされ、叫んで目が覚め、そして己が姿に絶望し、元に戻るのをただひたすら待つ。真夜中にずっと、震えながら。
こんな生活を送っていて、どうして夫婦の営みを望めようか。
──私、ラクナス様と一緒にもっと、たくさんの時間を過ごしたいです。
今夜の夕食の席で、まっすぐにそう言ってくれたルビアンを思うと、申し訳なさでいっぱいになる。
「……ラクナス様? 大丈夫ですか? 悲鳴が聞こえましたが」
彼女のことを考えていたからだろうか。そんな幻聴が聞こえて来た。
いや、幻聴ではなかった。扉を叩く音もする。
まさしくその向こう側に、彼女がいるのだ。
思いもよらぬ呼びかけに、ラクナスは焦った。このようなおぞましい姿を、彼女の前で晒すわけにはいかない。
焦る彼はルビアンを制止することすら忘れ、ただベッドを飛び降り、その陰に身をひそめる。
それと同時だった。彼女が、恐らくバルージャから借りたであろう、合鍵で扉を開けるのは。
「あれ、ラクナス様どこに──っ」
もぬけの殻になったベッドから、室内を辿る視線はやがて、ベッドの奥に隠れた二つの耳を見つける。次いで、彼の目が野獣のように、ろうそくの明かりを反射する様にも気付いた。
ルビアンは、小さく息を飲んだ。彼女の掲げる小さな光は、ラクナスの変わり果てた姿を、闇から浮かび上がらせる。
「頼む、見ないで、くれ」
思考の定まらない頭で、それだけ絞り出す。
獣人の姿になると理性が解けてしまうのか、脳内には霧が立ち込めていた。
哀れっぽい嘆願は、しかし剛毅な花嫁に退けられた。
「隠れないでください。びっくりしたけど、怖いわけじゃないですから」
サイドボードに燭台を置いた彼女は、回り込んでラクナスの隣にしゃがみこむ。
そしてあろうことか、その頭部を撫でた。
バルージャとシロマですら恐れおののく姿へ、躊躇なく触れる気骨に、ラクナスは目を見張る。しばし、思考は混乱を極める。
「よしよし。怖いことがあって、変身しちゃったんですよね?」
それじゃあ仕方がない、と受け入れるように彼女は微笑んだ。小さく、ラクナスは頷く。
「毎晩、悪夢にうなされ、こうなる」
キツネそのものになった、長いマズルと犬歯の鋭い口腔では、人語を操るのも一苦労であった。
霞がかった脳内と併せて、なお口調がたどたどしくなる。
「それが初夜を延期していた理由なんですね。でも、キツネの姿も素敵ですよ」
「素敵……?」
「はい、毛もフワフワで柔らかくて。頬ずりしたいです」
嘘やお世辞ではなさそうだ。本当に蕩けた笑顔で、シャツの隙間から覗く、ふさふさの尾をうっとり見つめている。
その笑顔に、恐怖で強張っていたラクナスの心も、かすかにほぐれた。
「君は、変わってる」
ぽつり、と呟いた彼の輪郭がぼやけた。
突然の出来事にルビアンが目を丸くしていると、ラクナスは人の姿に転じた。
「あ、戻っちゃった」
ルビアンは少し残念そうだ。何故だ。
一方のラクナスは、己の手を眺め、頬を触り、呆然としていた。
「あれ、どうしました?」
「ああ、いや、すまない。こんなにも早く戻れたことは、今までなかったんだ」
「そうなんですか? でも、戻れて良かったですね」
にっと、ルビアンは少年のように笑った。
その笑みに勇気づけられ、ラクナスは乾いた喉へ唾を流し込む。
「ルビアン嬢……君は私の妻だ。だから、聞いてもらいたいことがある」
「なんでしょうか?」
「その、私の見る悪夢のことだ」
異形に成り果てた姿も、見られたのだ。
ならばその原因も、彼女には知る権利があるし、知ってもらいたかった。
ルビアンも表情を引き締め、一つ頷く。
「はい。教えてください」
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