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19:二柱目の悪魔
会談という名の、キツネの君による一方的かつ不本意な恫喝が終わった後も、ラクナスは人間に戻れなかった。
──どれだけ私は、虫が苦手なんだ。
己の打たれ弱さについ、心が滅入る。長い尾も、怯えるように胴へ巻き付いていた。
彼が異形のままでいる以上、人通りの多い道は進めなかった。ギャングの首領のように、泡を吹いて失神する犠牲者が増えかねない。
よって往路よりも人目に付かぬ、裏路地ばかりを選んで帰路につく。
「私は、一生、このまま……?」
ラクナスは絶望感から、泣き出しそうな声で呟いた。
「そんなことないですよ、ラクナス様。お屋敷に戻って、お茶でも飲んだらすぐ戻れます」
「そーそー。どうせ、また虫が出てくんじゃねーか、内心ビクビクなんだろ? そんなんじゃ、戻れるわけねーだろ」
ルビアンだけでなくアンリルも、あまりにもラクナスの背負う空気が、悲壮感たっぷりだったためか、激励の言葉を投げかける。
慰めるように、金褐色の体毛が豊かな首周りを優しく撫でつつ、あ、とルビアンは呟いた。
「そういえば、青空教室はどうしてるんですか? この辺りでやってるなら、虫も出ますよね?」
──どうして青空教室のことを、知っているのだろう? 話しただろうか?
まとまらない頭で考えつつ、ラクナスはぼそぼそ答える。
「もう、何度か、転化してる。子どもから、キツネのおじさん、呼ばれている」
げ、とアンリルが呻いた。
「ただのやべーオッサンじゃねーか。ガキの親に刺されず済んでるのが、奇跡じゃねーか?」
酷い言い草だが、反論しようもない。へな、と耳がしおれた。
それを見つけたルビアンが、非難の目をアンリルへ向ける。
「ちょっとアンリル。ラクナス様の可愛いお耳が、台無しじゃないですか」
「なあ、ルビアン。こいつ、本当のマジに可愛いか? おめー、視力大丈夫か?」
アンリルの眼差しは、可哀想な子を見る時のそれだ。
なお不安全な裏路地散歩であるが、獣人の五感を用いれば、危険を全て回避することが出来た。
殺意みなぎる体臭も、武器を構える微かな物音も、あまねくラクナスは察知した。
もっともそんなものを使わずとも、ギャングの幹部が失禁する異形ぶりである。先頭を歩いているだけで、余計な害悪は払われていた。
そんな予想外に安全だった復路だが、屋敷の十メートル程前まで来た時、ラクナスの歩が止まった。
腰を落とし、彼は犬歯をのぞかせ唸った。
突然の変わりように、ルビアンも戸惑う。
「ラクナス様、狂犬病ですか?」
「違う。何か、屋敷の前に、いる」
ルビアンとアンリルは一瞬視線を交わし、次いで揃ってラクナスを見る。
「何か、ですか?」
「何だよ、また虫か?」
アンリルの言葉に、ラクナスは首を振った。
「悪魔、だ」
「えっ」
「はぁっ?」
二人が素っ頓狂な声を上げた。
だが、ラクナスの嗅覚は訴えていた。
暗くて湿り気のある、魔界の匂いを漂わせた人影が、屋敷の前にあった。
ルビアンたちの声が聞こえたのか、俯きがちだったその人影が、こちらを向いた。
それは一見すると、ルビアンより二、三歳上に見える、漆黒のドレスを纏った金髪の女性だった。
「げっ……シージェ……」
女性の姿を見とめたアンリルが、強張った声で名を呼ぶ。
シージェと呼ばれた女性は、パッと顔を輝かせた。花を背負わん勢いの、喜びようである。
「お会いしたかったですわ、アンリル様!」
舌っ足らず気味の甘い声で、歓声を上げる。同時に、大きく手を開いて駆け寄って来る。
アンリルの知人。やはり悪魔で、間違いない。
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