2:クレムリン家の養女

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2:クレムリン家の養女

「キツネの君の、お耳に触れるなんて……!」 「なんて命知らずな!」 「死神に取り憑かれるぞ、あのご令嬢……なんとおぞましい……」 「まさか、彼女がクレムリン男爵の……?」  二人を中心に、周囲の人々が跳ぶように後ずさる。  豪華絢爛なドレス姿で俊敏なステップを見せる貴婦人たちへ、ラクナスは場違いにも感心した。  遠巻きになった参加者たちを、赤髪の美少女は困ったように見渡している。  図らずも、自身の因縁に巻き込んだ彼女へ申し訳なく思いつつも、ラクナスは胃痛を覚えていた。紺碧の瞳を細め、そっと腹部を撫でる。  ややあって美少女は、遠巻きとなった群衆の中にクレムリン男爵を見つけた。つい、とそちらへ一歩踏み出す。  同時に群衆は、更に一歩たじろいだ。 「あの、お養父様?」  彼女の呼びかけと、周囲から向けられる冷ややかな眼差しに、クレムリン男爵の顔が青ざめる。 「くっ、来るな! 父と呼ぶな、汚らわしい!」 「そんなこと言われましても──」 「話しかけるな! もはやお前と我が家は、何の因果関係もない! いいな!」  因果関係とは、大きく出たものである。  クレムリン男爵はそう叫ぶと、ラクナスの記憶よりも随分薄くなった頭髪を一つ撫で、そそくさと回れ右をする。  彼はそのまま、逃げるように伯爵邸を立ち去った。  養父に見捨てられた少女は、困った顔のまま棒立ちだった。  どうしよう、と小さく呟く声も聞こえた。  そんな当惑気味の少女の横顔に、貴族としての矜持が突き動かされ。  ためらいつつも、ラクナスは近づいた。怯えられないよう、静かに声をかける。 「君が、クレムリン男爵の養女殿だね」 「え? あ、はい、そうです。えっと、貴方は」  ガーネットよりも鮮やかな、深紅の瞳がラクナスの顔と、キツネ耳の間でさ迷った。 「サマルカンドだ。キツネの君と言った方が、通りは良いだろうか」  最後は少し、自嘲気味の口調になってしまったが、許して欲しい。何故ならば、望んで手に入れた通り名ではないのだから。  だがクレムリン家の養女は、パッと明るい表情になる。造作の整った顔のため、輝かんばかりに美しい笑顔だ。 「はい、存じています。サマルカンド様に是非ともお会いしたかったので、光栄です」  反応があまりにも新鮮過ぎて、ラクナスは返答に窮した。半笑いのまま、しばし黙考する。  二人を囲む貴族たちも、その言葉に眉を潜め、ひそひそ声を交わした。  先の黒くなったラクナスの耳はぴん、と立って、それらの声を拾い上げる。  とても、クレムリン嬢に聞かせられる内容ではなかった。 「……ところで、お父上はああ仰っていたが、今夜はどうするつもりなんだ?」  強引に話題転換をして、陰鬱な囁き声を遠ざける。  雨が降っているがどうする、と問われたように、深刻さを感じさせずに美少女は首を捻った。 「特に、何も考えていませんね。元々孤児院育ちなもので、社交界に友人もいなくて」 ──どこか砕けた口調なのは、市井の出だからか。  どうでもいいことに、つい納得した。  しかし「高貴なる者の使命」に従って生きて来たラクナスにとっては、聞き捨てならぬ言葉である。  いや、たとえ爵位を持っていなくとも、親から放置された年少者を捨て置くなど、大人として出来るはずもない。 「分かった。気味が悪くなければ、今夜は私の屋敷に泊まりなさい。お父上のことは、それから追々考えよう」 「良いんですか? ありがとうございます」  にっかりと笑う彼女は、お世辞でも何でもなく心底感謝している様子だった。  こんな姿になって以来、裏のない謝辞を受けるのは初めてかもしれない。  ラクナスはまた、返答に困った。
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