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20:恋は盲目(悪魔であろうと)
喪服のようなドレス姿のシージェは、一見すると単なる淑女である。
蔦の生い茂った幽霊屋敷──もといサマルカンド邸を背後にしていると、なおさら葬式感が強かった。
おそらくラクナスも、獣人になっていなければ、彼女を未亡人か何かと勘違いしただろう。
そんな暗い服に反して、明るい表情の彼女が駆け寄って来るが、アンリルは俊敏に避けた。
「もおっ、アンリル様ったら!」
きゃはっと笑ったシージェは、たたらを踏みつつ止まり、方向転換。
そして再度アンリルへ突進するも、また避けられる。
「受け止めてあげようよ、アンリル」
その不毛な鬼ごっこを、気の毒に思ったらしい。つい、ルビアンが声を掛けた。
そこでようやく、シージェはルビアンと、ついでにラクナスの存在に気付いたようだ。
立ち止まった彼女はゆっくりと、二人へ顔を向ける。笑顔がかき消され、無表情だ。
「ねえ……アンリル様。この者たちはどなたですの?」
眉間にしわを寄せているアンリルの幼い顔が、ますます強張った。彼はせわしなく髪をかきまわし、鼻をかきながら、うろうろと視線もさ迷わせる。
「あ、あれだよ……コイツらんトコに居候してんだよ。居候先の旦那と嫁さんだ」
「このキツネに見覚えがありますが。アンリル様が作った、魔界軍の騎士ですわね?」
「お、おう」
シージェはアンリルの方を見ず、ラクナスたちをにらみつけた。
次いで、吠える。
「つまり、この者たちに脅され、虐げられておりますのね!」
「なんでそうなるんだよ!」
泣きそうな声を出し、アンリルはシージェへ詰め寄る。しかし、遅かった。
彼の伸ばした腕がシージェを捕えるより早く、彼女はラクナスへ肉薄する。手にしていた日傘を、振りかぶった。
獣性に支配された思考のため、ラクナスは反応に遅れた。日傘が振り下ろされる。
その先端からは、刃が突き出ていた。仕込み傘──暗器だ。
「ラクナス様!」
ルビアンが彼を突き飛ばすのと、彼女のかざす左腕に暗器が刺さるのは、ほぼ同時であった。
刃が埋まった箇所から、鮮やかな血がしたたり落ちる。
「ふん、メスブタが。こざかしい」
急所を避けたルビアンを、シージェが嘲る。刺さったままの仕込み傘を、ぐるりとねじった。
気丈にもシージェをねめつけたままだった、ルビアンの表情が痛みに歪む。
「ぅあっ……」
「ルビアン!」
突き飛ばされた状態から反転し、身を起こしたラクナスが叫ぶ。
「私の妻に、触るな!」
鋭い歯をむき出しにして咆哮し、ラクナスは地面を蹴った。その俊敏さは、肉眼で追うことが困難なほどだった。
ために今度は、シージェが出遅れる。嗜虐性を隠そうともせずルビアンを嬲っていた彼女は、まず仕込み傘を手放すことに遅れた。
ついで獲物を放置し、逃げることにも遅れた。
一瞬とは言えたじろいだ彼女の肩を、キツネの爪がえぐった。
「きゃあああ!」
熱のような激痛と、視界を染める血しぶきに、シージェは絶叫する。
深手を負い、緩んだ彼女の腕から、仕込み傘ごとルビアンを奪取する。
奪い返した拍子に刃が、ルビアンの腕から抜け落ちる。とぷり、と零れだす鮮血と痛みに、また彼女の顔が歪められた。
再び流れ始めた血の匂いが、ラクナスをますます怒りへ駆り立てる。
ルビアンを地面に寝かせ、シージェへ唸った。
「次は、全身を、切り裂いてやる……!」
「やってみなさいよ! 獣人風情が!」
血が流れ続ける肩を押さえながら、爛々とした目でシージェも威嚇する。彼女の周囲に、漆黒の閃光が走った。
両者の衝突を止めたのは、アンリルだった。
「往来で何やってんだよ、てめーら!」
アンリルは両手をかざし、無数の鬼火を呼び出す。それを、二人目がけて放った。
彼らのすぐ目の前で、鬼火は爆ぜる。
「ぐっ」
「きゃっ……」
目くらまし程度の威力しかないものの、双方を怯ませるには十二分だった。
その隙に彼は、手持ちのハンカチでルビアンの傷口を縛り、止血を試みる。
途端に周囲を包む血の匂いが、わずかにだが薄れた。
「旦那、落ち着け! ルビアンなら大丈夫だ、致命傷じゃねー!」
彼女を支えながら、アンリルが叫ぶ。
悪魔による応急処置を施されるまま、ルビアンは無傷の腕をラクナスへ伸ばした。
「ラクナス様。殺しちゃ駄目です」
彼女の澄んだ声を背に聞き、ラクナスの肩が小さく震えた。逆立っていた体毛が、かすかにだが鎮まる。
ゆるゆると、彼はルビアンへ振り返った。殺意にぎらついていた青の瞳は、理性の火を灯していた。
「ルビアン……傷は?」
痛みを堪え、ルビアンがにっと笑う。
「これぐらい、かすり傷ですよ。何ともないです。だからラクナス様も、怒らないでください。優しいラクナス様が、私好きなんです」
「……すまない」
アンリルは安堵の息を零し、ふらつく彼女をラクナスへ託す。
次にシージェへ詰め寄り、至近距離で怒鳴った。
「シージェ! 誰がてめーに助けを呼んだんだ!」
肉のえぐられた傷口を押さえたまま、シージェの瞳は揺れた。
「だっ……だって、アンリル様が戻ってこないから。いつまでたっても、帰ってこないから……アタシ、心配で!」
「オレは好きでここにいんだよ! そもそもてめーに、助けを頼んじゃいねーんだよ! 勝手な真似すんな! 帰れ!」
恫喝するアンリルの迫力は、魔界軍に相応しいものがあった。
シージェの藤色の瞳が、涙で潤む。
「ひどい……なんで、なんで、そんなこと言うの? アタシは、アンリル様が大好きで……」
「オレはてめーを好きじゃねえ! 何度も言わせんじゃねーよ!」
「ひどいっ!」
ぽろぽろと涙をこぼし、血を滴らせ、シージェは踵を返して走り去った。
内股で敵前逃亡するその細い背中を、ラクナスとルビアンは唖然と見送った。
「彼女さん、追いかけなくていいの?」
ラクナスに抱きかかえられたルビアンが、そう問いかける。
途端に、それはそれは嫌そうなアンリルの顔が振り返った。庭の雑草抜きを命じられた時でも、ここまで不景気な面構えではなかったはずだ。
「今のやり取り見て、あいつがオレの彼女だと思うか?」
「思わないけど、別れた恋人の可能性はあるかな、と」
「こえーこと言うな! あるわけねーだろ! 単なる顔見知りだ! そのくせ俺につきまとって離れねーわ、彼女面してくるわで、めちゃめちゃ恐ろしい女なんだよ!」
「……それは怖い」
その思い込みの激しさで傷を負ったルビアンは、盛大に顔をしかめた。
彼女を抱えるラクナスも、長い鼻筋にしわを刻み、不機嫌に唸った。
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