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21:女の勲章
屋敷に戻ってようやく、ラクナスは人の姿に戻れた。
だが、それに安堵または歓喜している余裕などない。
血みどろのルビアンを見て号泣するシロマを宥めつつ、彼がまず行ったことは医者の手配。
同時にバルージャを警察署へ向かわせ、人間界へ不法侵入中の女悪魔がいると伝える。もちろん、アンリルについては伏せたままだ。
医者探しは難航した。
サマルカンドの名を告げると、怯えた声で断られる場合や、即座に電話を切られる場合も多かった。
怒鳴りたい衝動に駆られるも、シロマに付き添われるルビアンの姿を見つめ、何とかそれに耐える。
──本当に辛いのは、ルビアンなんだ。私が怒ったところで、彼女の傷は癒えない。
そう己を戒め、受話器を握りなおす。
ようやく見つかった医師も、裏口からこっそりやって来て、終始怯えた顔だった。
「その、サマルカンド様のお宅で診察を行ったと知られれば、他の貴い身分の方々から、何と仰られるか、分かりませんので……」
「もちろん、貴公の来訪を口外などしない。無理強いをし、申し訳ない」
それでも医者の沽券があるのか、丁寧にルビアンを診察し、傷口を治療する。
「野良悪魔に襲われたとは、何とも不運でございますな」
消毒を行いながら、医師は同情するように、ルビアンへ話しかける。ラクナスは言外に、「キツネの君と、結婚されたばかりに」と言われている気がした。
だがルビアンは、いつもの泰然自若とした態度に戻り、なんとも軽い調子で頷く。
「この辺りは、治安が悪いもので。あ、でも、慣れると楽しいところですよ」
「さ、左様で、ございますか」
あっけらかんとした彼女の声に、医師は面食らう。
「……奥様は、ずいぶんと物好きなお方で……いえ、失礼いたしました」
「いやいや、その通りだと思いますよ。先生は正直な方ですよね」
「あ、それは……」
青ざめる医師を、ルビアンは爽やかに笑い飛ばした。
「いやだな、怒ってませんって。お医者さんは、正直な方の方が安心できますから。良いお医者さんに診てもらえて、良かったです」
「それは……恐縮です」
このやり取りと、屈託ないルビアンの態度と美貌に、医師も心がほだされたようだ。
彼はこちらが伺うまでもなく、帰り際に、今後の治療方針を提案した。
「次は一週間後に、私の診療所へお越しください。往診では……色々と問題もございますが、来ていただければ十分な治療をいたします」
「ああ、ありがとう」
「その間、出来るだけ傷口は動かさないように。それから包帯は、一日に一度交換なさってください」
「はい、分かりました」
丁寧にそう指示を加え、医師は裏口から帰って行った。ルビアンと二人で、彼を見送る。
とりあえずは愛妻の傷も、治療の目途が立ち、心底安堵する。
左腕を三角巾で吊るしているルビアンは、少し不満げに唇を尖らせた。
「結局、表玄関からは帰ってくれませんでしたね」
「そこまで強請るものではない。君の治療を引き受けてくれただけで、私は十分だ」
次いでラクナスは、ルビアンへ向き直る。かくり、と頭ごと視線が落ちた。
「私を庇ったばかりに、傷を負わせてしまい……すまなかった」
奥歯を食いしばっての、悔恨にまみれた声をも、ルビアンは笑って受け止める。そして、夫の悲しげな顔を覗き込んだ。
「愛する旦那様のために負った傷なら、名誉の負傷ですよ」
微笑むルビアンはそっと、ラクナスの倒れた耳を撫でる。
優しいその感触にラクナスも、小さく笑った。
屋敷に戻ってからずっと、憂い顔の崩れなかった夫の笑みに、ルビアンは一層キラキラと微笑んだ。
見つめ合う二人の上空に、突然、火の玉が出現した。
ぼん、と破裂音を立てて現れたそれは、驚く両者の視線を釘付けにした後、瞬く間に消えうせた
あとに残された黒い灰がひらひらと、文字を形作りながら舞い落ちる。
『傷は女の勲章』
「……これは、メイトリス神の?」
「はい。神託、みたいですね。空中に出現するとは、また斬新な」
「絨毯を焦がさぬよう、気を遣ってくださったのだろう」
ラクナスの手のひらに落ちた灰を見下ろし、二人は微笑み合う。
が、すぐに彼のサファイアの瞳は、真剣な光を帯びた。
「ルビアン」
「はい」
「たとえ君が、どれだけの傷を負おうと、私の気持ちも揺るがない。もちろん、これ以上負傷させるつもりなどないが──ただ、それだけは、覚えていて欲しい」
クソ真面目な夫は、凛々しく精悍な顔でそう宣言する。
「もちろんです。その言葉、一生忘れませんからね」
はにかみながらも、茶目っ気たっぷりに返した妻の頬へ、優しい口づけが落とされる。
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