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23:旦那様は心配性
「ラクナス様、迷惑です」
その静かな怒りが落とされたのは、シージェ襲撃から二日経った日のことだった。
発言者であるルビアンは無表情に扉を閉め、言われたラクナスは呆然自失で、閉じた扉を見つめている。
「便所の前で何やってんだよ。こえーよ、あんた」
屋敷の掃除をしつつ、遠巻きに二人のやり取りを窺っていたアンリルが、呆れ顔で近づいた。
「あのさ、旦那。いくらルビアンでもよ、便所まで付いてこられるのはイヤに決まってんだろ」
そう言って背中を叩き、真っ白になった主人を諭すも。
ラクナスはふらつく足取りで、それを無視──あるいは、聞こえていないのか。
彼はそのまま蛇行しながら、かつての客間である書斎へ滑り込んだ。そして中からバタン、と何かが倒れる音がする。
否、倒れたのはラクナスであろう。床に突っ伏して、酷く落ち込んでいるに違いない。
「あーあ……ありゃ重症だな」
半眼で、アンリルは髪をかき回す。
シーツを抱えて二階に上がって来たシロマが、書斎を見つめる彼に気付いた。
「どうしましたの、アンリル君? ひょっとして、坊ちゃんとルビアン様に、何かありましたの?」
さすがはシロマ。聡い。
「ああ、ばーちゃん。いや、旦那がよ、便所まで付いてって怒られたんだわ」
「まあっ! なんてデリカシーのない!」
ルビアンの態度に怒る訳などなく、シロマは当然といった調子でラクナスを責めた。
「心配なのは、ばあやも重々承知しております。でも、ぼっちゃんの心配性は度を越しておりますわ」
「だよなー。あれじゃあルビアンも、息が詰まるってもんだよな」
アンリルも肩をすくめ、困った主人が落ち込んでいるであろう、書斎の扉を見つめる。
きっかけはもちろん、シージェである。
厳密に言えば、彼女がルビアンに負わせた傷が原因だ。
利き腕でないことが幸いだったとはいえ、片腕を負傷した愛妻に、ラクナスはそれはそれは甲斐甲斐しく世話を焼いているのだ。
食事の補助から始まり、包帯交換、湯あみの手伝いまで。
未だキス以上の関係に至っていないというのに、裸を見られるのは厳しいものがあっただろう、と想像に難くない。
相手に恋愛感情を抱いていれば、なお恥ずかしいに決まっている。
しかし、入浴までは真っ赤な顔で耐えたルビアンだったものの、今度は「トイレも、片手では使い辛いだろう」と言われ、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだ。
そして冒頭の、「迷惑です」発言へと至る。
仮に自分がその立場だったとして、と使用人三人は考え、ぞっとした。
正しくあらんと、自身へ大きすぎる理想を掲げているラクナスのことだ。負傷したのが彼らであっても、鬱陶しいまでに世話を焼く可能性は、ゼロではない。
いや、世話を焼くに決まっている。
「オレが怪我した時に、あいつにケツ拭かれるとか、死んでも嫌だ!」
「じいやも、それは謹んで全力で固辞したいというものです」
少年従僕と老家令は頷き合い、書斎をノックした。
返答はなかったものの、無礼を承知でドアノブを回せば、鍵は掛かっていなかった。
妻に拒まれたショックで、首でも掻っ切っていたら事なので、アンリルたちは躊躇しつつも進入する。
幸い、血みどろ死体が転がっていたり、首吊り死体がぶら下がっているような、最悪の事態は起きていなかった。
代わりに三十一歳男性(既婚)が、部屋の隅で三角座りをするという、世にも物悲しい光景を目にしてしまった。
癖のない長髪はぼさぼさ、キツネの耳もぺったり寝ている。
膝の間に顔を埋める彼を、アンリルとバルージャは切ない眼差しで見守った。
「なんちゅー露骨な落ち込みよう……」
「坊ちゃんは挫折知らずで、今まで生きて来られました。ですので、落ち込み方をご存知ないのです」
擁護しているのか小馬鹿にしているのか、バルージャの言葉は分かりづらい。
なお、遅れて書斎にやって来たシロマも、子どものようなキツネ男の居住まいに、目を見張っていた。
この場合は年少者が動くべきだろう、とアンリルが慰め隊の先発を務めた。
未だぴくりとも動かない主の横に、でんと腰かける。
「なあ、この前の凛々しいあんたはどこ行ったんだ? あん時ぐらい、どーんと構えて、ルビアンを安心させてやりゃいいじゃねーか」
アンリルの脳裏にあったのは、泣きじゃくる自分を受け入れてくれた、まさに貴族の鑑たる彼の姿だった。申し訳ないが、目の前の三角座りと、同一人物であるとは思いたくない。
続いてシロマも、ラクナスの前へしゃがみ込む。
「そうですよ、坊ちゃん。貴方様は、このお屋敷とルビアン様をお守りになったんです。もっと自信を持って下さいまし」
「左様でございます」
バルージャも、彼女と並んでしゃがみ、主のつむじを見つめる。
「お怪我をされたルビアン様が心配なのは、じいや達も同じでございます。ですが、お花摘みにまでご同行されるのは、あまりにもルビアン様のお心を無視された軽挙です。その点を素直に謝られて、そして、いつもの仲睦まじいお姿を、我々に見せて下さい」
うん、とアンリルは一つ頷く。
「あんたら見てると胸やけすっけど、喧嘩されちゃあ、ちょっと物足りねーんだよな。早く仲直りしとけよ」
「……分かっている」
くぐもった声が、ラクナスから発せられた。
使用人トリオは目を合わせ、身を乗り出す。
しかし残念ながら、それ以降彼が口を開くことはなかった。
やがてそれぞれに仕事を抱えている使用人たちは、名残惜しそうに書斎から立ち去っていく。
「あんたはクヨクヨ考えすぎだ。悪魔みたいに、とは言わねーけどよ、ちったあ能天気になれって」
アンリルは苦笑と共に、そんな言葉を残した。
それをラクナスは、膝に突っ伏したまま考える。
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