25:スズランの恋心

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25:スズランの恋心

 親同士が決めた婚約であったが、ラクナスと元婚約者の関係は良好だった。  お互いに真面目な性分だったため、双方火遊びをすることもなく、誠実な婚約期間を築いていたはずだった。たぶん。  だがそれは、ラクナスの拉致によって瓦解した。  むごたらしい拷問の末に洗脳が解け、ようやく解放されたラクナスと一目会うなり、婚約者は悲鳴を上げた。 「こんな化物と結婚だなんて、私には出来ません! なんておぞましいの……二度と現れないで!」  そしてこの言葉を吐き捨て、彼の元から離れて行った。  廃嫡されたため詳しくは分からないのだが、ティルウスから聞いた話によると、彼女はその後すぐに、ラクナスの弟と結婚したらしい。 ──二人の関係は、いつから始まっていたのだろうか。 ──結局彼女が結婚したかったのは、私個人ではなく、次期公爵だったのだろうか。  そのことを知る術は、最早ない。それにラクナス自身、特段知りたいとも思わなかった。  あんなことを言った相手に、たらたらと未練を募らせるほど、彼も暇ではないのだ。領主として、片付けねばならない問題は、それこそ山のようにある。  問題は元婚約者の残滓が、ルビアンの負傷により彼を苛んでいるという事実だ。  ラクナス自身は、ルビアンがたとえ大病や大怪我に見舞われようとも、どのような姿に変わり果てようとも、彼女への想いは揺るがぬという自信があった。  だが人間不信気味の彼は、ルビアンも同じ気持ちなのだと信じられなかった。  不幸を招き寄せる「キツネの君」を、いつか忌避し、自分から遠ざかってしまうのではないか、と不安のがんじがらめになっていたのだ。  そして、要らぬ世話まで焼いて、彼女の心を繋ぎ止めようと必死になった。  だから今も、どこか怯えた眼差しをルビアンに向ける。  自分は捨てられるのか、と哀れっぽい目は、か細い声で訴えていた。  その目をじっと見つめ返し、ルビアンは少年のように笑った。 「馬鹿な旦那様ですね。私は離れませんよ。あなたに助けてもらった時からずっと、心はあなたのものです」 「……助ける?」  身に覚えのない言葉に、ラクナスは理知的な顔をしかめる。  彼女に助けてもらったことこそあれど、彼女を助けた記憶は、残念ながらない。本当に、残念なことに。  そんな彼の、剣だこだらけの手を、ルビアンはそっと握った。 「覚えていないんですか? ラクナス様を捕えるため、人類軍の人質になった子供のこと」 「なっ……」  ラクナスは絶句した。  無意識に、自由な手で口元を覆う。大きく見開かれた碧玉の双眸が、はにかむ愛妻を見つめた。  洗脳されていた頃の記憶は、全てが白黒で曖昧だ。  それでも、自分を捕えるために巻き込まれた少女の涙は、克明に覚えていた。 ──言われてみれば、確かに面影がある。何故気付かなかったんだ! 「君が、あの時の……怖い思いをさせて、すまなか──」  謝罪は、最後まで言えなかった。  いつかのように身を乗り出したルビアンが、彼の唇に自身のものを重ねる。  触れるだけの、戯れのような口づけだ。  だが密着する彼女の体から、スズランの香水の、繊細な香りが漂う。 「謝らないで」  そっと唇を離したルビアンは、彼の眼前で囁く。その身に纏う香りのように、優しく甘やかな声だ。 「ラクナス様は立派でした。見ず知らずの私のために、一切抵抗しなかった」 「それは……年長者として、騎士として、当然の行動を取ったまでだ」 「その当然が出来ない人、結構多いんですよ?」  悪戯っぽくそう言った彼女は、ふわりと微笑む。   「だから、あの時思ったんです。この人はお話の中に出てくる騎士様のような、気高い方だって」  ルビアンはラクナスの頬を、愛おしそうに撫でる。じっと彼を見つめて。 「それは、恋をするのに十分すぎる理由でした」 「ルビアン……」 「それに、人質作戦の口止め料代わりに、男爵家の養女になれたんですよ? おかげでラクナス様とも結婚出来て、私は万々歳です」  彼女の前向きで、ちょっと風変わりな考え方はいつも、ラクナスを救ってくれる。  ルビアンの華奢な腰に腕を回し、こちらへ抱き寄せる。そのまま膝の上に載せた。 「ありがとう、ルビアン」 「いえいえ。ところで……これ、ちょっと恥ずかしいんですが」 「口づけをする方が、恥ずかしいんじゃないか?」  ほんのり頬を染めるルビアンに、苦笑した。  抱きかかえる体は、とても軽い。こんな軽い体のどこに、悪魔を殴り倒す膂力があるのだ、といつも不思議に思う。 「君の言葉を、全て信じられる自分になりたい。だが、私は、まだ──」 「分かってます。ラクナス様がいっぱい辛い目に遭ったこと。だから」  ルビアンの右腕が、彼の首に回される。 「嫌ってぐらい、私があなたを愛します。『もういい、分かったから!』って言われるぐらい。あ、でも、お手洗いには付いて行きませんからね」 「それは承知している。……ありがとう、ルビアン」  おどけた言葉に微笑み、ラクナスも彼女を優しく抱きしめる。  華奢で軽いのに、その膂力は途方もなく、そして心はそれ以上に大きい。  ラクナスの妻は不思議な存在だ。  だからこそ彼は、彼女の全てを信じたいと思った。  彼女は元婚約者ではない。  頭では分かっていた当然のことを、感情も理解しつつあった。 「それにしても」 「はい?」  膝に乗せたルビアンを、ラクナスはしげしげと眺める。 「あの時の少女と結婚するとは、思いもよらなかった」 「でしょうね。当時の私、十歳でしたから」  十歳。ラクナスからすれば、幼児と大差ない年齢である。  そんな少女が、一人前の淑女になると言うことは── 「……道理で私も、老いるわけだ」 「大丈夫ですよ。元々が格好良いから、今も渋くて素敵です」  遠い目になる夫の耳をこねくり回しながら、幼な妻は陽気になぐさめた。
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