26:魅入られた人たち

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26:魅入られた人たち

 神の加護は決して、悪魔封じのためだけに使うものではない。  本来の加護とは、自身の信奉者に様々な恩恵を授けるため、施すものなのだ。  純粋な神族でないルビアンは、残念ながらその加護を使いこなせずにいた。またその力も、神々に比べればあまりに弱い。  せいぜい、悪魔の魔力を弱めたり、ほんの少し運を良くする程度の代物である。  それでも加護はたしかに存在し、そしてかつてはクレムリン家にも、恩恵をもたらしていたのだ。  ルビアン本人の意思とは、無関係に。  だがそれも、今は昔。  彼女の心がラクナスに傾き、そして物理的にも距離が生まれた現在、その加護は消失していた。  ルビアンの出自は知っていたものの、クレムリン夫妻は 「武神の加護など、ちょっと健康になったり、筋肉が付きやすくなるだけだろう」 「そうですね。だって脳みそまで筋肉でしょうから」 などと、加護とその恩恵について軽く考えていた。否、嘲笑っていた。  そして現在。 「誰なんだ! 武神の加護は、役立たずだなんて言った奴は!」  不毛の大地となりつつある、儚い髪を乱暴にかき回し、クレムリン氏は書斎で叫んでいた。  向かいのソファに座るその妻も、暗い顔で手元をにらんでいる。  彼らは今、窮地に追い込まれていた。  出資した事業が、全て失敗したのだ。  それだけではなく、所有している鉱山でも爆発事故が発生し、多数の死者が出ていた。  そして、このまま閉山の可能性が非常に高い、と先ほど弁護士から言い渡されたのだ。  ルビアンが出奔して以来、何をしても、一向に生活が好転しないのだ。  それどころか次の手を打てば打つほど、それは悪手となって跳ね返って来る。  確かに加護の力はひどく弱い代物だったが、上昇しようと試みる者の背を、後押しする程度の力はあったのだ。  また同時に、転がり落ちんとする者を、奈落へと押し出す力も持ち合わせていた。  加護が失われたことで、斜陽の一族──孤児を押し付けられ、唯々諾々と養女にするほどに──は、その奈落へ突き落とされたのだ。  おかげで、ルビアンがいた頃は大所帯だった使用人たちも一人、また一人と解雇され、今では一週間前に雇った、雑役女中唯一人となっていた。  その女中も、どこの馬の骨とも知れぬ、紹介状すら持っていない身元不明者だ。間違っても、上流階級の人間が雇う人種ではない。 「ねえ、あなた……」  クレムリン夫人の落ちくぼんだ目が、ぎょろりと夫を見上げた。 「やっぱりもう一度、サマルカンド邸に行って、資金援助をお願いしましょうよ」 「馬鹿を言うな! あんな伏魔殿にもう一度行ってみろ、今度こそキツネの野郎に食われてしまう!」  本人が訊けばむせび泣くであろう内容だが、 「キツネの君は人肉が好み。魔界軍時代にその味を覚えた」 という噂が、社交界において広がっているのだ。根も葉もない噂であるが、耳がああなっている以上、信じている者も多い。  ラクナスが貴族社会において、避けられるわけである。  しかしこの噂には、ラクナスだけでなく、アンリルも憤慨するであろう。彼は悪魔の割に、肉よりも魚を好む健康志向だった。 「手塩にかけて育ててやったのに……最後の最後で噛みつきやがって!」  クルミを粉砕した、かつての養女を思い返し、クレムリン氏は歯噛みする。  彼の半生は、誰かに振り回され続けるものだった。  結婚前は、現在の妻に。  自分よりも格上の家柄だった彼女は、財力しか取り柄の無かった若きクレムリン氏を、それこそ顎で使っていた。  結婚のため、思い出すのも辛い羞恥に耐えたこともあった。  そしてめでたく結婚にこぎつけ、さあこれから、と言う時に第二の強敵が現れた。  実の息子である。  息子は妻の奔放さに、少年特有のいたずら心を混ぜ合わせた、凶悪の権化であった。  社交界でも悪さを繰り返し、挙句の果てには家督も継がず、 「俺、トレジャーハンターになるんだ」 そんな世迷いごとを言い残し、放浪の旅に出た。とんだ放蕩息子である。  最後の強敵は無論、ルビアンであった。  人類軍が極秘作戦に協力させた見返りとして、孤児だった彼女に貴族の娘という地位を与えたのだ。  だったら王室で面倒を見てくれ、と思うのだが、押し付けられて愛想笑いしか浮かべられないのが、クレムリン氏という小市民。  そして彼は、妙に怪力で淑やかさに欠ける、顔以外に長所の見当たらない彼女に苦労しつつも、ひたすら耐えて淑女教育を施した。  今度こそ、今度こそは耐えた先に幸せがあると、信じていた。  なにせルビアンは、黙っていれば深窓の令嬢。まさに神の子と呼んで差し支えない、美貌の持ち主なのだ。  必ずや、格式高い家柄との縁戚を結べるものと、信じていた。  しかし、彼女は掠め取られた。キツネの君という人外に。いや、本人がほいほいと付いて行った、と言うべきか。  クレムリン氏にとっては、飼い犬に手を噛まれたと同義の出来事だった。  客観視すれば、彼が現在不幸せなのは偏に、自分の幸福を誰かに委ね続けたことが原因なのだが、それを指摘する者はこの屋敷にいない。  それどころか。 「旦那様、奥様」  どこか舌っ足らずな甘い声が、ノックに続いて聞こえる。  件の雑役女中だ。 「今は呼んでいなくってよ。あっちに行きなさい」  扉も開けず、苛立たしげに夫人が言い放つ。 「いえ、どうしてもお話がございまして」  しかし女中は引かない。いつもは従順さだけが売りなのに、とクレムリン氏は不機嫌と疑問符を胸中に宿す。 「旦那様方を悩ませている、養女様のことですよ」  そして、続く言葉は聞き捨てならぬものだった。元々血の気の薄い、夫人の顔が強張る。  クレムリン氏は、野放図になった頭髪を丹念に整えつつ、扉を乱雑に開けた。 「……ルビアンのことを、どこで調べた」  薄ら笑いの女中をねめつける。  彼女の前で、ルビアンの名前も存在も、一度も匂わせたことなどないのに。  知らず、口の端が震えた。  しかし男の睥睨など意に介さず、女中はコロコロと笑う。 「嫌ですわ、調べただなんて。社交界でも有名ですもの。キツネの君が射止めた、赤髪の女神と」 「あの女が女神なものか!」 「ええ。アタシもそう思いますわ」  鼻息荒いクレムリン氏へ、訳知り顔で女中はうなずく。  その恭順な態度が、かえって不穏さを覚えさせた。態度に反して彼女の目は、氷のように冷ややかだったのだ。 「……シージェ。お前は、何を考えて……いや、何のために、わしの屋敷に潜り込んだ?」 「潜り込んだだなんて、心外ですわ」  再度シージェは、コロコロと笑う。 「私もあなた方と同じ。一泡吹かせたいだけですの。だから、ね、協力なさりません?」  細い三日月のように、シージェの唇がニッと持ち上がる。  その目は怪しい光を灯していた。  何かを言おうとしたクレムリン氏だったが、その目を見とめた途端、思考が止まった。  それは、黙りこくった夫を怪訝に思い、立ち上がった夫人も同じだった。  木偶人形のように、口を半開きにしたままぼんやりと立ち尽くす二人を眺め、シージェは満足げにほほ笑む。 「欲深い人間って素敵ですこと。だって、とっても扱いやすいんだもの」
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