3:サマルカンド邸

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3:サマルカンド邸

 赤髪の美貌の令嬢は、ルビアンという名だった。  孤児院育ちを標榜する彼女は、自身を載せた馬車が旧王都へ向かっても一切動じない。  ただ、物珍しげに窓から外を眺めるだけだ。 ──クレムリン男爵の街屋敷は、新王都の近辺だったか。ならば、珍しいのも仕方がないだろう。  窓から顔を離したルビアンが、向かいのラクナスを仰ぎ見た。 「お屋敷はこちらにあるんですか?」 「ああ。廃嫡された時に押し付け──賜った領地がここだ」 「スラム街を押し付けられたんですね、ご愁傷様です」  うっかり滑り出た失言も、しっかり拾われ、挙句にしみじみ同情された。  しかしラクナスが失言してしまい、ルビアンが同情する通り、旧王都は廃墟寸前の有様である。  かつての王都は大戦時に多大なる被害を受け、未だに復興途上である。がれきの山が、そのままになっている区画も少なくない。  そんな土地を、子爵の地位と共に与えられた。生家から放逐される際の、いわば手切れ金代わりだ。  手切れ金の割に、ラクナスへ何の利益も与えてくれないのだが。  旨味ゼロの土地であるものの、屋敷への愛着はそれなりにあった。幽霊屋敷寸前だった家屋を、自らの手で修繕したのだから当然だ。  また、生家から付いてきてくれた使用人二人には、多大なる恩義も感じている。  今夜もキツネ耳の家主を、家令のバルージャと家政婦のシロマが笑顔で出迎える。 「お帰りなさいませ、坊ちゃ……」  モノクルを掛けたバルージャは、ルビアンと目が合い息を飲んだ。  そして白い口髭を震わせ、ラクナスをねめつけた。 「坊ちゃん! いたいけなご令嬢をかどわかされるとは、何事ですか! じいやは坊ちゃんを、そんな助平に育てた記憶はございませんよ!」 「誤解だ、じいや! 保護したんだ、保護を!」  シロマもぽっちゃり顔を怒りで赤く染め、けんけんとラクナスを責める。 「まあまあまあ! いくら女日照りだからって、誘拐はいけませんわ、坊ちゃん!」 「違うぞ、ばあや! だから人道的保護なんだ!」  じいやとばあやに責め立てられ、ラクナスはかかなくてもいい汗をにじませた。 「あの、違うんです。悪いのは私なんです」  次いで悪意なしに、ルビアンが更なる燃料を投下する。  案の定、シロマが叫ぶ。 「まあああ! 女性になんてことを言わせるんですか!」 「だからっ……そういう意図はないんだ!」  ラクナスを、母のお腹にいる頃から知っているためか、この二人は遠慮がない。  彼自身もそこに気安さを感じているので、特に不満はなかった。もっとも今は、その遠慮のなさでたじたじ、である。  冷や汗を拭いつつ、耳をぺったんこに倒しつつ、ラクナスは手短に事情を説明した。  自分に声を掛けたがために、彼女が養父から見捨てられてしまった、と。  二人の不運に、主が変わり果てても忠誠心の揺るがぬ二人は、しょぼくれた表情を浮かべる。 「それはそれは……災難でございましたね」  応接間にルビアンを案内し、お茶を出しながら、シロマは労うように言った。 「ありがとうございます」  にこり、と人好きのする笑みをルビアンは浮かべた。  シロマの言う通り、ラクナスは女日照りだ。  そして常々「女主人のお世話をしたい、お化粧やお着換えのお世話をしたい」とぼやいているシロマは、その笑顔を嬉しそうに見つめている。  我が家の家政婦が気に入ったのであれば、ひとまず安心だ。ラクナスより気の利く彼女が、何だかんだと世話を焼いてくれるだろう。   「……タージ様にお任せになられた方が、よろしかったのではないでしょうか? 奥方様も、とても気立ての良い方と伺っております」  言外に、独身男性の屋敷に招き入れるなんて、とラクナスを非難しつつ、バルージャは白い眉を寄せた。  端正な顔を曇らせ、ラクナスは首を振る。 「私と関わったばかりに、彼女は養父から切り捨てられたんだ。伯爵家に任せれば、彼らをも巻き込みかねない」 「左様で、ございますね……」  主の、世間からの評判を熟知しているバルージャも、暗い顔になった。  暗くなった空気を払拭するように、ラクナスは努めて明るい声を出す。 「というわけだ。彼女の世話を頼む」 「かしこまりました」 「もちろんでございますとも」  優秀な使用人の顔に戻り、バルージャとシロマは折り目正しく頭を下げる。  二人へ小さく頷き、ラクナスは窓へ視線を向けた。  ガラス窓から見える夜空に、月はなかった。今夜は新月だ。 「それから、くれぐれも今夜は外へ出ぬように」  使用人二人と、そしてルビアンの顔を見回し、ラクナスは釘を差す。  心得た二人はもちろんです、と異口同音に返答する。  ルビアンだけは事情が分からず、首を傾げる。 「何故でしょうか?」 「今夜は月も出ていない。夜歩きは危険だ」  もちろんそれだけではないのだが、一時の客人である彼女へ、本当の理由を伝える必要もない。  要らぬ不安や恐怖を与えることは、貴族として正しくない、とラクナスは考えていた。  ルビアンはどこか納得していない様子だったが、真剣な彼の表情に飲まれたのか、ためらいつつも頷いた。  ラクナスはホッと、密かに安堵する。  これで心置きなく、戦いに赴けるというものだ。
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