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お使いから帰ったあとも、突然コピー機が壊れて業者を手配したり、お客様用の茶葉が切れて百貨店まで買いに走ったり、普段起こらないアクシデントが続発した。
「桑江さん……疲れている所、申し訳ないんだけど」
若林課長は、私の机の前までわざわざやって来て、頭を下げた。
「はい?」
「4・5月のCSR活動報告書のデータチェック、頼めるかい」
チラリと落とした腕時計の長針は、終業まで20分を切っている。引き受ければ、残業必至だ。
「今日中でしょうか」
「うん。さっきファイルが届いたんだ。ギリギリになって申し訳ない」
「分かりました」
彼に気持ちが傾いていた少しまでの私なら、笑顔の1つも添えて応えたに違いない。しかし、もう手に入ることの無い、幸せ絶頂の他人の男には興味なくて。気合を入れた眼差しだけ返して、引き受けた。
「もー、なんなのよぅ……」
お腹空いた。全力で取り組んだけど、1時間半の残業になった。こんなことなら、昼間、炭水化物をしっかり捕っておくんだった。夕食は、どこかで食べて帰ろう。家までは、とても持ちそうにない。
「あれ、桑江さん? こんな時間まで、どうしたの」
2個上の先輩、前薗さんの間延びした声が降ってきた。私の席の後ろを通りながら、終了処理しているPCにチラリと視線を投げる。
「急遽、CSR活動報告書のチェックが入って」
「ええ? 桑江さん1人でやったの?」
彼の席は、私の隣。今春、部署内で席移動があり、私と課長の間の席になった。私が課長に熱い視線を送っていた頃は、ヌボウと面長な彼の横顔は邪魔以外の何者でもなかった。とはいえ、外回りの多い彼が、私の視界を遮る機会はそうそうなかったのだけど。
「そうなんですよぅ……」
「幾ら優秀だからって、酷いなー。で、課長は?」
右隣の課長のデスクを覗き込んで、まだ退勤していないことを確認したようだ。
「データ持って、総務に行きました」
「そうかぁ。あ、桑江さん、これあげる」
机に置いたカバンの中から何か取り出すと、ササッと私の目の前に置いた。
「……は?」
パッケージに覚えがある。老舗洋菓子店のフィナンシェだ。これ、好きなのよね、私。
「敢闘賞、なんて」
言ってから、はははと照れ笑いしている。
「えっと、あの……?」
「お得意先への手土産の残りなんだけどさぁ、経費で落ちてるから、遠慮しないで」
そう言うと、彼もラングドシャクッキーの包装を開けて、パクリと食べた。少し出た前歯のせいで、三十路に近い男のクセにモルモットみたいにモグモグしている。
「ありがとうございます……」
夕食前に甘いモノか……。迷ったけれど、空腹には抗えなかった。個包装の袋を開けて、パクッと囓る。洋酒を含んだバターの甘い香りがフワリ、鼻から抜けて、癒される。
「桑江さん、まだ帰れないの? 課長待ってる?」
フィナンシェを食べ終えた途端、彼は質問してきた。手帳に視線を落としたまま、私の方なんて気にしていないみたいだったのに。
「いえ、もう帰れますけど」
PCは、既に落とした。あとは、御手洗に寄って、着替えるだけ。
「じゃあさ、ご飯行こうよ。俺、昼のタイミング逃してさ、おにぎり1個だったから、ヘトヘトなんだ」
あ。なんか、似てる。思わず、クスッと笑みが溢れた。
「嫌いなモノある? なかったら、良く行く居酒屋があるんだ。鳥の唐揚げが美味くてさぁ……」
多分、今とっても空腹で、大変だった今日1日の状況がちょっと似ていて……私も唐揚げが食べたかったから。
日頃、仕事上でしか話すことのない前薗さんと2人切りで食事に行くなんて、普段の私なら考えられない決断だった。
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