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一度ハナちゃんにさそわれて、北野町にあるハナちゃんの家まで行ったことがある。
北野町はこの町では名の知れた高級住宅街。お城みたいな家ばかりが、見晴らしのいい丘の上にならんでいる。ハナちゃんの家は、長い坂のいちばん上にあった。
バス停でおりてから、ひとりで坂道をてくてくと登っていく。道の両側には立派なお屋敷の垣根が続いている。途中で足を止めてふり帰ると、もうだいぶ高い所まで来ている。
足の下には秋の街。大通りのケヤキ並木はもうすっかり色づき、町を流れる川は午後の日をうけて白く穏やかに光っている。通りのあちこちでキラキラと白い光がまたたくのは、たぶん車の窓に映った日の光だろう。
やがて大きな古い門の前にぼくは立つ。「花木」という表札が出ている。たぶんここだろう。インターホンの場所がよくわからなくて、しばらく門の前を行ったりきたりする。ようやくポストの横にそれを見つける。ぼくはおそるおそる押してみる。
だいぶん時間がたってから。
『はい』
小さなスピーカーから、聞き覚えのある声がした。
「ぼくだよハナちゃん」
『どちらさまでしょう?』
「ん、どちらさまって言われても……」
ぼくは口ごもる。
『あははっ。何を困ってるのキミは? 冗談だってば。いま行くからちょっと待っててね』
そこはもともとハナちゃんのひいおじいさんが建てたお屋敷で、もう長い間ずっと空き家になっていた。で、この秋からまた、ハナちゃんとハナちゃんのお父さんが住むことになって。ひとまずキッチンとトイレとお風呂だけはちゃんと使えるようにリフォームし、あとは広い家の中を少しずつ掃除しながら暮らしていると。そういう話だった。
たしかにそれは広い家だった。そして古い。
これが建ったのはたぶん、大正とか昭和のはじめ頃だろう。長い廊下の床は厚い木でできていて、靴のかかとで踏むとコツコツと硬い音がする。匂いも変わっている。ちょうど博物館とか町の歴史資料館のホールと同じだ。時の重さを含んだ埃っぽい匂い。
廊下の窓や階段の途中の窓には、立派なステンドグラスがはまっていた。それまでぼくは、ステンドグラスなんてものは教会にでも行かないと見られないと思っていた。
「普通の窓のが、ぜんぜんいいわよ」
ハナちゃんは、つまらなそうに言う。
「見た目は綺麗だけど、これだと窓の外が見えないし。せっかく庭で花が咲いてても、夕暮れの空が綺麗でも、ぜんぜんわからないでしょ?」
「まあ、そう言われればそうかも」
「いつか父が死んでわたしがこの家をひきついだら……」
「え?」
「そしたら、このへんの窓はぜんぶ普通のガラスに変えてしまおうと思ってるの。でも、なかなか機会がなくてね。父はいつもわたしより長生きだから」
――ん? それって何? どういうこと?
ぼくはそう思ったけど。でもまあ、とりあえずうなずいておく。
『いつか父が死んで』とか。
ふつうならドキッとするような変わったことでも、ハナちゃんはさらりと言うから。聞いてるこっちがドキドキしてしまう。
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