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✽✽✽
「あのぅ、まずは下ろしていただけますか?」
専務室に入ってからも腕から下ろしてもらえず、千尋は光也の膝抱っこでソファに座っている。
「おや、私はこのままでもいいのですが、心地が悪いですか?」
「そうではなくてですね」
いや、心地はまったくよくない。
どこの会社に部下をお姫様抱っこする上司がいるだろうか。それも子供かペットでも抱くように優しく包むとは、心地悪いを通り越して気味が悪い。
千尋はマゾヒストなのだ。こんな扱いは寒気がする。
ようやく下ろされたあとも鳥肌が立っているのを感じて、スーツの上から片腕をさすった。
「重なりますが、本当に私は課長から不当な扱いは受けておりません。田中さんがどう言われたかはわかりませんが、私自身がそう感じているのですから、問題はありません。今すぐ課長の処分と、私の異動を取り消していただけませんか?」
ソファに座る光也の横で頭を下げて訴えるが、聞いているのかいないのか、光也は返事もせずに千尋の顔をじっと見つめている。
「専務、お聞きになっていますか?」
失礼は承知だ。背をかがめて光也の顔を覗き込み、目の高さを合わせた。
「……藤村君、ちょっと失礼」
「は? ……わっ!」
突然立ち上がった光也に眼鏡を奪われ、前髪をかき上げられる。見下げてくる琥珀色の瞳が長いまつ毛の間から覗いて、星が瞬くようにきらりと光って見えた。
「やっぱり……間違いない」
「あの、何が間違いないのでしょうか。それより早く手を離してください。あと、眼鏡を……」
「これ、伊達眼鏡ですね」
眼鏡を取り返そうとするもかわされる。依然として前髪も上げられたままだ。
「眼鏡も髪も……せっかく美しい顔をしているのにもったいない。なぜ隠すのですか?」
背筋にゾワゾワ感が走った。美しいなんて言葉は、千尋にとっては不快でしかない。
「失礼ですが専務、社員の容姿について触れるのも立派なハラスメントだと思いますが」
首をひねって光也の左手から逃げた。眼鏡は取り返せないが前髪を戻し、再び顔を隠す。
(何が美しいだ。じぃちゃんが大嫌いだったこんなオメガ顔、僕も大嫌いだ)
──男なのに白い肌で赤い唇、瞳も濡らして! アルファを誘うような顔をするな!
そう祖父に叱られ、張り手をくらったこともある。
「確かにそうですね。でも……」
光也は千尋の眼鏡を自身のスーツの内ポケットに収めてしまう。
「上司として部下の身だしなみに進言するのはかまわないですね? 君は今日から私の第一秘書なんですから」
背の高い光也に見下ろされる。隙なく整った顔は美しいが、口答えを許さないような重圧感があった。
(うっ! これはこれでおいしいかも。氷の貴公子と呼ばれる専務に「俺の指示に従え」とか言われるのも悪くないのでは?)
異動も、それも第一秘書になることに困惑しかない。それなのに、光也の高級そうな革靴に踏まれる自分が頭に浮かんで、無意識にうなずいてしまった。
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