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「突然のことで驚かれたでしょうね」  社に戻る車の中。  成沢は、朝からの異例続きで絶賛混乱中の千尋に声をかけた。 「驚くも何も、さっぱり理解できていません。会社員だから異動があるのはわかります。秘書になれば身なりに気を使わなくてはならないのも。でもなぜ、技術職の私が専務室の、それも、第一秘書に任命されるのですか?」 「私が秘書を引退するから、と言えば納得されますか?」  成沢は背筋こそしゃんとしているが、髪色や肌の質から見て七十代に差しかかっているだろう。役員クラス以外でその年齢の社員はいないため、引退はうなずけない話ではないのだが。 「……でも、それは理由にはならないですよね」  代わりになる有能な人材は秘書課で列をなしているはずだ。 「そうですね。これは"名目"ですね。藤村さん、光也様には本来秘書は不要です。何事においてもすべてご自身で管理、遂行される能力がある方です。海外支社を回られていた間も秘書はおりませんし、このたび日本に戻られるに当たって、会長より指示があった数名の秘書もお断りされています。ですので"第一秘書"とは言いましたが、専務室には私以外の秘書はおりませんし、実は私も正規の秘書ではないのですよ」 「どういうことですか?」 「私の本職は光也様付きの執事です」 「執事さん!?」  耳を疑った。近隣国の財閥ドラマじゃあるまいし、個人付きの執事がいるとか、執事が仕事のフォローにまで回るとか、千尋の常識の範疇外だ。  だが成沢は静かにうなずいて続けた。 「KANOUはホールディングス化して十五年になりますが、未だ執行役員の半数が叶家の血筋です。他にもそのような会社はありますが、KANOUは特にファミリーグループ色が濃く、重要な取引ほど役員内で決定する傾向にあります」 「ええ、まあ……」   成沢の口調は批判的なトーンを含んでいるが、KANOUはそれで業績を伸ばし続けているのだから、千尋に異論はない。  それよりも自身の質問の答えがほしかった。 「それで、実は……」  成沢が身を寄せてきて、声の音量をぐっと低くした。どことなく緊張感が漂っている。 「光也様はそれらの取引の一部にある疑惑をお持ちになり、密かに調査に入られました。ですので、ご自身のそばに会長の息がかかった社員を置くことを牽制されていて、ひとまず代役として私を秘書に立てられたのです」  ごくり。  ドラマのような話の展開に、千尋は無意識に生唾を飲み込んだ。 (まさか、会社で不祥事が!?) 「つまりどの派閥にも無関係で、影の薄い平社員が秘書の方が動きやすいということですか? 確かに私に当てはまりますが、それだけです。私はサポートの仕事はしたことがないのですが、そんな私がお役に立てるのでしょうか……」  千尋も一段声のトーンを下げる。それでも運転手には聞こえているはずだ。大丈夫なのだろうかと思うと、細い身体をさらに縮めてしまう。  成沢もまた、さらに千尋に身を寄せ、耳打ちしやすいようにした。 「実は、あなたにしかできない重要な任務があるのです。……それは」 「それは……?」
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