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何も知らないあたしは、ただ頑なに口を閉ざす。
「何も分からない状態で、知らない土地には行かせられないわ。何か目的があるなら、教えてちょうだい」
母の目は真剣だ。それはそうだ。母の言っていることは間違っていないし、あたしだって知らない土地に一人で行こうとしているのはかなり心細いと思っている。頼れる大人がいるなら頼りたい。
「……小さい頃にさ、近所にいた男の子に、会いたいなと思って……」
「……え?」
「だ、だから、よくモミの木公園で、俺が一番強いんだぜ、みたいな子、いたじゃん? その子に……会いたいなと……」
あー、言っておいて、ものすごく恥ずかしくなってくる。
暑い部屋の中が息苦しくなってきた気がして、あたしはそばで回っていた扇風機の風力を最大にした。耳周りにかかる後毛が風でバタバタと暴れ出す。
「……ああ!」
一瞬眉間に皺を寄せて考え込んでいた母が、目を見開いて笑った。
「一葉くんのこと?」
「……え?」
「小学校上がる前に引っ越して行っちゃった、桐一葉くんの事でしょ?」
「……え、なんで? お母さん、知ってるの? あの子のこと」
まさか。
果てしない旅になると、覚悟を決めていた。
名前も知らない、小さい頃にあっただけの人を探すなんて、夜空の星を全部数えるくらいに難しいことだと。
それなのに、母よ。
あたしのその壮大なストーリーの結末をいとも簡単に答えてしまうとは。早く聞けば良かった‼︎
後悔先に立たず。
すぐさま気を取り直して、あたしは食い気味に母に詰め寄った。
「なにそれ、なにそれ! え? お母さんその子のことずっと知ってたの⁉︎」
「え? あ、うん。だってとても有名になっていったから」
「……有名?」
「桐さんね、今世界を飛び回る建築デザイナーさんなのよ」
「えぇ⁉︎」
「雑誌とか、テレビ番組とかにも良く取り上げられているわよ。たぶん、梨紅もテレビなんかで見たことあるんじゃないかしら。だいぶ有名人だもの」
すぐにスマホを操作し始めて、母はあたしに画面を向けてくる。
『今回ご紹介するのは、今最も注目を浴びている建築デザイナー、桐政良さん! 皆様ご存知の通り、オリンピックの開会式の会場デザイン案にもご協力くださって──』
映し出されたのは、前髪にだけ白髪の混じる黒髪をオールバックにした、髭のおじさん。
にこやかに司会者から紹介を受けて、挨拶を始めたけれど、確かにこの顔は見たことがある気がする。実際に会ったとかじゃなくて、たぶんこんな感じで画面越しにだ。何かの番組かニュースで知っていたんだと思う。
だけど、あたしが会いたいのは、この人じゃない。
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