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ある日、実習から帰ると涼さんがソファに座ってじっとテレビボードに置かれていたフォトスタンドを手に取って見つめていた。
「ただいま……涼さん」
その真摯な瞳に、もしかして記憶を取り戻したのか?と、少しだけ動揺してしまう。
「おかえり、なつめくん」
でも俺を呼ぶ声は穏やかなものだったし、呼び方も〝なつめくん〟だったので、記憶が戻ったわけではなさそうだ。
「涼さん、姉さんの写真見て何か思い出しましたか?」
尋ねると、涼さんが力無く首を横に振った。
「うん……なつめくんと瓜二つだなって。僕はどうしてあずささんのことも、前のなつめくんのことも思い出せないんだろう。きっと大切な記憶だと思うのに」
涼さんが必死に記憶を取り戻そうとしているのはわかっているけれど、姉さんのことは思い出しても前の俺のことは正直、思い出して欲しくない。
前の俺は涼さんにとってただの慰みもので、今の涼さんのように俺を愛してはくれていなかったから。
「……焦る必要はないですよ。それに──前の俺のことは……あまり思い出して欲しくないんです」
「どうして? 僕は記憶を失う前はどんな風になつめくんを想っていたのかを思い出したいよ?」
──想っていないよ……。
そう言ったら涼さんはどんな反応をするだろうか、いっそのこと言ってしまいたかったけれど、狡い俺はその言葉を呑み込んだ。
涼さんの手にしているフォトスタンドの中で眩しそうに笑う姉さんが、やっぱり俺を睨んでいるように感じられて胸が締め付けられた。
「前の俺は……涼さんにとっては今よりも大切じゃなかったんです」
涼さんが目を白黒させて、「そんなことあるはずがないよ。だって、なつめくんは僕が記憶を失う前から傍にいてくれていたんでしょ? きっと大切だったよ」と微笑んだ。
涼さんのその言葉に少しだけ罪悪感を覚えたけれど。
でも、この仮初の幸せにまだ溺れていたくて──。
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