五月の線路

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 初めての夜は、雲になったみたいなセックスだった。腫れ物に触れるかのような男の指先がもどかしくてつい自ら腰を浮かせてしまった。自分でも驚いた。枯れかけていた花が水を与えられて背筋が伸びたように一瞬の生命力が蘇った気がする。こんなにも潤うほど私は性に焦がれていたのかと恐ろしかった。 「なんでわざわざ私を止めたんですか? やっぱりただの身体目的ですか?」  布団を裸に巻き付けて問う。煙草の煙たさなんて微塵も感じない。 「理由がほしいか」 「そりゃあ、まぁ」 「でも気持ちよかったやろ」 「…はい」 「それでええやんか」 「はい? 答えになってません」 「君は、えっと…名前なんやっけ?」 「美知華です」 「美知華は、俺が理由があって生きてると思ってるんか?」 「いや…わかんないです」 「俺にももう生きてる意味なんかないねん。でも生きてんねん」  引っかかる言い方をするけれど、私が他人の過去を深堀する理由もない。  返す言葉を見失って黙っていると、男は煙草を決して裸のままシャワーを浴びに行った。揺れる尻を見送って、彼は何歳くらいなんだろうか、と尻の垂れ具合と肌から予想してみるけれど、いくつと言っても失礼な気がして考えるのを辞めた。  私は孤独を愛したわけじゃない。強いて言うならば、孤独に愛されてしまっただけかもしれない。友人は…一人いたけれど、高校生の頃に親の都合で引っ越してしまった。彼女の存在だけが学校に行く意味だった。朝を迎えるたびに激しい腹痛と吐き気に襲われ、学校へ行けなくなり、最終的には中退してしまった。けれど後悔はしていない。恐ろしいと感じるものから逃げて何が悪い。両親だって私を放っておいたのだ。私だけのせいじゃない。そうであってほしい。 「佳栄子さん…」  日の光が入らないラブホテルのベッドの上で朝を迎えた。 祖母の夢を見ていたせいか、目が覚めると涙が頬を伝っていて無意識に祖母を呼んでいた。  十八歳の時に両親が離婚し、祖母の元へ預けられた。高校を中退して約一年間引きこもっていた私がついに十八歳の誕生日を迎えた日、ハッピーバースデーのお祝いの言葉はなく、離婚の告白をされた。誕生日ケーキというものを食べたことすらなかったおかげか、母親が離婚の話をしてきた時に全く驚かなかった。いつかそうなるだろうと思いながら親の背中を見てきてよかったのかもしれない。そんな年頃にはじめて祖母に会ったため、おばあちゃん、なんて可愛らしく呼べなかった。 「私、佳栄子言うんや、よろしくなぁ」  ソファに腰かけた祖母の上目遣いが力強かったのを覚えてる。意識を吸い取られてしまいそうな不気味な雰囲気のある瞳をした女性。それが初対面の印象だった。 「美知華です」  そう言った途端に祖母の唇が離れた。何か言いたそうな、でも言葉が見つかっていないような、そんな様子で私の両目を交互に見ていた。 「ほうか…美知華か…ほうかほうか、美知華いうんか、あんたと出会うために私は娘を産んだんかもしれんなぁ」  意味がわからなかった。けれど意味を問う余裕もなかった。祖母はやけに目尻を下げて強い力で私を抱きしめたのだ。まるで幼児をあやすように頭を撫で、毛先をつまみ、頬を撫で、唇を触った。間近で見る肌や歯に拒絶し、不気味なその女から力づくで離れた。
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