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「誰の名前?」
「あ、いえ…起きてたんですか」
乾いた涙を拭って身体を起こすと、下着すらつけていないことに気づいた。昨夜の最後の記憶は…男の尻。寝落ちてしまっていたらしい。
「美知華さ」
私に後頭部を見せたまま低い声で言った。
「俺のせいで一日伸びてもたけど、昨日と同じ場所にまた立ちに行くんか? それとも…帰るんか?」
駅のホームでまた黄色い線の内側に立つのかと聞いているんだろう。
俺のせいで一日伸びた、か。そんなことを言うならもっと乱暴に扱ってくれと苛々する。
「帰りたくはないですね」
はいもう一度立ちますと言えなかったのはこの男の影響だと息苦しくなるほど実感している。この男は歪な匂いがする。その広い背中はどうして砂漠みたいな広大な孤独を感じさせるのか気になってしまった。
「じゃあどうすんの」
「さぁ、何も考えてません」
「…なんや、その強さ」
「つよ、さ?」
「家にも帰らん、でもまだ死にもせんとなって、特に行く宛てもない。それやのに何も考えてないって、考えずに今を過ごせるのって強いやろ」
どの言葉を用いて返せばいいか迷てしまった。ここで黙ってしまってはまるで、自分の強さに気づいて心動かされたみたいではないか。
「一回本気で死のうと思えばわかりますよきっと。明日がないって本気で思った時の、世界の美しさったらないですよ、ほんと…」
明日も明後日も何年後までも人生は続いていくのが当たり前みたいな綺麗な顔した人間たちが私を横目に過ぎ去っていくあの光景。自分が人間であったのかさえわからなくなりそうで、人の匂いがする世界が幻想的に見えたのが不思議で仕方なかった。現実味があるのかないのかも曖昧でふわふわ呼吸する口や鼻の形さえ忘れてしまっている。そして意味もなく涙だけ言うことをきかないのだ。
この男に止められる一時間ほど前の感覚。
「美しいって、ほんまかよ」
「ほんまっすよ。地球とかいう幻想世界で、まるで自分だけ適応してないみたいで、惑星旅行か異世界転生に失敗したみたいな夢を見てる気分になるんですよ。こんなでっかい脳味噌抱えてるくせに、虫以下ですよ。まぁ実際、その瞬間はふわふわしててそんなこと考えてないですけどね。今思えばそんな感覚だったって話で」
引いたのか、考えているのか、鼻呼吸の音しか返ってこない。
やっぱりその背中、理由はわからないけど見つめてしまう。思考停止したら勝手に手が伸びてしまって触れてしまいそうだ。
男がこっちを向いていない間に布団を退けて下着を身に着ける。青いプリーツスカートに脚を通した瞬間に声が動き出した。
「で、どうするん?」
「どう、とは」
「どっか適当に歩くつもりなんか?」
「まぁ、そうですね」
終わりが来たと思ったのに変な男と出会って変な場所で変な格好をしていたのだから、また適当に歩いていれば変なことと出会ってまた次の日が来そうな気がしていた。
「俺の家くるか?」
ほら。
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