五月の線路

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 夢を見てた。初めて宏樹さんと出会った日みたいにラブホテルにいて、やっぱお前最高やわ、一番そそられる、と甘い声で言われ抱かれた。夢とは思えないくらい現実味のある息だった。さらに彼はこうも言った。生きててよかったこと一つもなかったか? と。終わりを迎えられなかったあの日から今まで、という意味だろうが、あの夢の中ではどれくらい時間が過ぎた頃の話なのだろう。とても長い間一緒にいるような会話だった。現実ではあの日からまだ三日しか経っていないのに。  瞼を開けると視界は真っ白だった。セフィオンテクトで綺麗な丸みを生み出しているそれはこんなにも顔を近づけるものじゃない。便器の頬に口づけでもするかのような距離だ。  誰からのおはようもない。誰かにおはようを返さなくていい。とても居心地のいい目覚めだ。産まれてはじめてストレスのない目覚めがこんな場所とは、笑ってしまう。眠っていた体勢のせいか、血流が止まってしまっていて左腕の感覚がない。右手でその白さに触れてみる。冷たさが気持ちいい。深く息を吸い込み、トイレの空間だと実感してみる。どこかで嗅いだことあるような芳香剤の匂いが少し落ち着く。  便器の蓋に右手をついて体勢を起こすと、左腕の中で熱い血が暴れ出し感覚が戻っていく。身体が痛い。今何時なんだろうか。気にしなくていいことを気にしてしまう。トイレに窓はないけれど、明かりをつけたまま眠っていたらしく、余計に時間感覚が狂う。用を足し終えると座ったまま脱力し、お腹が鳴った。 「お腹すいた…」  狭い空間は独り言が恥ずかしいほど自分に返ってくる。  ドアを開けると廊下はしんとしていて、リビングに入ると夕日が侵食して太陽に溶かされてるみたいに赤かった。家具が燃やされてしまってるんじゃないかと思うほど、そこは散らかっていた。床に落ちているティッシュ箱や飲みかけのペットボトル、潰れた煙草の箱、スーパーの弁当の残骸、ボールペン、腕時計、割れた写真フレーム。こんな光景だけど匂いは嫌いじゃない。また深く息を吸ってみる。夕日の光が体内にまで侵食してきたように感じたけれど、吐き出せばまた空へ帰ってしまった気がして溜め息をつきたくなる。  宏樹さんは居ない。どこへ行ったのだろうと考えると予想はすぐに仕事か、と思えた。私もついこの間まで仕事をしていたのをもう忘れてしまっていた。人間が受ける影響力はすごい。退職届を出したわけでも、退職しますと言ったわけでもない。ただ行く意味がなくなったからその無理やりついた習慣がなくなっただけだ。  もう一度お腹が鳴って、なぜか牛丼が食べたくなった。  昨日はここにお邪魔してからすぐに「やっぱり帰ります」と玄関で立ち止まった。宏樹さんは呆れた顔で「どこに?」と言って私の手首を掴んで無理やり入れた。  きっとこの考えは佳栄子さんと生きてきた二年間の影響だと思うが、家に置いてもらってる身なので、と自分のことはどうでもよくなる。その結果、 「トイレでいいです」  と言った。 「ん? なにが?」 「部屋に行かなくても、トイレでいいです。トイレで寝ます。そのドアまでで大丈夫です」  そこからは無理やりリビングまで連れていこうとはしなかった。私の目の奥をじっと見たあと、わかった、と素直に言ってくれた。トイレのドアを閉める寸前に彼を呼び止め、ようやく名前を聞いたのだった。 「宏樹。大西宏樹。美知華の苗字は?」 「宇野」
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