五月の線路

5/7
前へ
/26ページ
次へ
 自ら断っておいて自らドアを開けてしまった。後ろを振り返って開けっ放しのドアを見て思い返した。  玄関が開き、昨日ぶりの顔が私に気づく。 「おはよう」 「…おはよう」  おはよう、か。背中が痒い。  大きなビニール袋を手に提げて踵で靴を脱いでいる。 「とりあえず、お風呂入ったら?」  リビングに入ってきた宏樹がビニール袋を置く時にちらっと見上げてそう言った。また今日も抱くから、という意味だろうか。どっちにしたって最後に身体を洗ったのはラブホテルだ。前髪も割れてしまっている。  お言葉に甘えて脱衣所で服を脱ぐと、左腕に傷跡が赤く目立っていることに今気づいた。身に覚えはある。佳栄子さんの家を最後に出た日、私はいつもの仕事着ではなく私服で出ようとしたのだ。その時佳栄子さんに「どこいくんそない格好で、お仕事あるんやろ?」と聞かれた。私はただ一言、さようならと告げて玄関を開けた。佳栄子さんは何かを察したのか力づくで止めようと左腕を握った。無理に振り払った際に佳栄子さんの爪が私の柔い皮膚を抉った。痛みは瞬間的なもので、数分後には気にもしていなかった。そんな傷、私の身体にはあってもなくても一緒のこと。  指先で傷に触れると瘡蓋になっていた。下腹部がずんっと一瞬重たく感じる。まだ求めているのだろうか、佳栄子さんの手を。  過去を全部洗い流してくれればいいのに、と熱いシャワーを顔面から浴び続けた。  もう残り少なくなっているボディソープを消費してしまうのが申し訳なく、シャンプーだけ手に出したけれど、手の平でゆったり流れる液体を見ているだけで虚無感が襲う。私の肉体はまるで錆びついた銅像のようで、どんな石鹸で擦っても変わらない気がしてならない。気持ち悪い、この身体もこの考えも。皮膚から内臓までどこまで抉り続けてもどこまでも汚れてしまっている。きっと誰かに過去を話してみても、もう過去なんだから大丈夫だよ、なんて言われたらそいつの頬を殴ってしまいそうだ。けれど、そう思うならば錆びついていると感じているのは自分自身だけであって、私だけが錯覚を見ているみたいじゃないか。自分の情けなさに気づきたくないから誰にも相談なんてできない。目を瞑ってじっとしていればいつか終わる、何事も。そう言い聞かすしか方法を知らない。  タオルを取ろうとドアを開けるとレディースのパジャマが置かれていた。切り忘れてたのか、襟元にタグがまだ付いたままだった。少し硬いバスタオルで全身を拭ったあと、タグを気にせずパジャマを着てリビングに戻った。 「あの、これ」 「お、似合うやん。その色にして正解やな」 「わざわざ買ってきたんですか?」 「いや、妹のやつや。前はよう遊びに来とってん」 「ふーん…」 「なに」 「嘘つきですね」  去り際にお礼を言ってトイレに戻った。鍵を閉めた瞬間に心拍数が下がっていく。芳香剤の香り…だけじゃない。私が入浴中にトイレを使ったんだろう。彼の煙草の匂いや他の匂いまで混ざった匂いがする。  女を連れて帰ってきたと思ったらトイレに住み着く妖怪だとでも思ってしまっただろうか。宏樹さんには申し訳ないけれど、実際助かっている部分もある。生きる以上、どこかに住まなくてはならない。でもここなら今のところお金もかからない。何より、佳栄子さんや母親がここを訪ねてくることはあり得ない。ひとり旅をしているような気分でもある。  それでもなんだろう、このじわじわ煮えたぎる胸焼けみたいな性欲は。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加