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「そう。じゃあ帰りましょうか」
意外なほどあっさり引き下がり、毬円はさっさと車に乗り込んだ。
お兄さんに面会だけでもして行きますかと百井が尋ねたが、史希はしばらく考えた後で首を横に振った。
「…もうすこし、うまく、話せるように…なったら」
まだ掠れて震える声で、史希は「…がんばるから」と呟いた。
毬円が先に助手席に座っていたので、帰路、史希は環の隣に座った。車内は行きと同じくしんと静かだった。こっそり窺い見ると、史希は相変わらず窓の外をじっと見つめていた。けれど、行きの車中で見たような焦点の曖昧さは今はなかった。窓の外に広がる水平線も、そこに溶け沈んでいく橙色の太陽も、彼女の視界にちゃんと映っていることが、わかった。
「…綺麗ね」
隣にいる環にしか聞こえないごく小さな声で、史希がそう呟く。
そのか細い声を聞いて、環の目にはまた涙が滲んだ。
♢♢♢
勝手に患者を外に連れ出すのは、本来であれば言語道断の行為だ。
だが話す事が出来なかった史希が拙くも声を出せるようになっていた事に医師もスタッフも驚きを隠せず、今後外出は必ず許可を取るように、と厳重注意を受けたのみでそれ以上のお咎めはなかった。
百井の車で毬円の事務所まで送ってもらう頃には、もう終業時間近くになっていた。毬円は寄りたいところがあるからそこまで送ってくれとそのまま百井の車でどこかへ出掛けて行ったが、環はいくらか今日中に処理したい仕事があったから、一人事務所に残った。暗闇を白々と照らす蛍光灯の下に、空調とパソコンの稼働する微かな音だけがじんと響いていた。
物寂しい静けさが、今の環にはちょうど良かった。暖かい光が灯る家に帰るのもなんだか気が進まなくて、急ぎでない仕事に手を着けていた。けれど、画面の文字は目の表面を空滑りするだけで、何も進みはしなかった。
二十時を回った頃、ノックの音が聞こえた。
どこかぼんやりしていた環は、こんな時間に誰だろうと疑問を持つこともなく条件反射でドアを開けた。
尚親だった。少し慌てているような、急いているような様子だった。
「…尚親。どしたの?」
不思議そうに首を傾げた環に、尚親もまた要領を得ない顔で眉を寄せた。
「どしたのって…何かあったんじゃないのか?環が事務所で泣いてるから迎えに来いって、毬円に言われたんだよ」
ドアを閉めると、尚親は環の頬に手を当てる。検分するようにまじまじと顔を見て、親指で目の下を擦る。
「泣いては…ないよな?」
会社規定のブルゾンを着て、いかにも仕事帰りに急いで来た様子だった。
何なんだ毬円の奴、と不満をこぼしながらも、尚親はホッとしているようだった。
尚親は異動してからまだ間も無く、残業もあるし勉強しなければいけない事も多いと毎日忙しそうにしている。
そんな中、こうして駆け付けてくれる。優しい、優しい尚親。
胸が詰まって、尚親の背に腕を回し、ぎゅうと抱きつく。
ねぇ尚親、聞いて。
私、本当は史希さんに言いたかったの。
窓の外の景色を見て、綺麗だって言ったあの子に、言いたかった。
そうだよ。綺麗なもの、たくさんあるんだよ。
あなたがそれを望むかどうかはわからないけれど、これからのあなたが、そういうものをたくさん見ることが出来たらいいなって、私は祈ってる。
そんなふうに願うことは、ただの独りよがりに、綺麗事に思えて、どこか傲慢な気もして、だからとても口にする勇気が無くて、言えなかった。言えなかったけど。
あなたがいつか、嬉しいとか楽しいとか幸せだとか、誰かをすごく好きだとか。
そういう気持ちを、いつか取り戻せますように。
私は心から、そう祈ってる。
「…帰ろうか」
尚親は環を抱き留め、子供をあやすようにとんとんと背中を叩いて、低い穏やかな声で、そう言った。
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