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2・魔術師 正位置
白いプリウスの助手席に半ば無理矢理押し込まれ、着いた先は、こじんまりした小汚い雑居ビルだ。焦げ臭いというか線香臭いというか、よく言えばエキゾチック、悪く言えばきな臭い異臭が、うっすら漂っている。同じような建物が密集している為に日当たりも悪い。
「四階だ」
戸惑う環にお構いなしで、尚親はずかずかと階段を上り始める。エレベーターはなく、四階まで階段で行くしか道はない。二階を通り過ぎたあたりで、環は早くも息を切らしていた。
「ここ」
顎を上げて尚親が示したのは、錆の目立つおんぼろのドア。環は肩で息をしながら、そこにぶら下がっているA5サイズのプレートを見上げた。そこに描かれた図案を目にした瞬間、あ、と小さく声を上げる。
「女教皇…」
身に纏った青い服、胸元を飾る大きな十字架。分厚い本を手に椅子に腰掛けるその静かな佇まいからは、知性と神秘性が漂う。
細部に少しずつ違いはあるが、翠先生の使うタロットカードでよく見る絵柄だった。
「よく知ってるな。それがここの社名だよ」
尚親がドアを引くと、環の視界から女教皇が消えた。代わりに視界に飛び込んできたのは、デスクの上に腰を下ろして足を組んでいる女性。
思わずはっと息を呑むほどに、美しい人だった。
「いらっしゃい」
夏の夜に鳴る風鈴のように涼やかな声が、環の耳を打つ。タイトスカートからすらりと伸びた細い脚を組み替えて、彼女は艶やかに微笑んだ。
真っ直ぐで艶のあるストレートの黒髪。頬に影を落とすほど長い睫毛。無駄な肉など一片もなさそうな、引き締まった細身の体。
さっきの撮影現場で見かけた女優達よりよほど華やかで──完璧だった。
圧倒的な美のオーラを前に、凡人の環はポカンと口を開けたままその場に立ち尽くす。
そんな環の様子を見て彼女はくすっと小さく笑った。ひらりとデスクから降りて、環の方へ歩み寄る。
「どうぞ中に入って。迷える子豚ちゃん」
まるで異国の紳士のような仕草で、彼女は恭しく環の手を取った。
環はぱっと頬を赤く染めたが、瞬時にはっと気付く。
子豚?
子豚って、私のことか?
「お前、それ多分間違ってるぞ。迷える子羊だろ。子豚じゃただの悪口だ」
背後から尚親が訂正すると、美女は「そうだっけ?」と首を傾げた。
「まぁどっちもどっちでしょ。ほら、座って座って」
背後から環の両肩に手を置いてぐいぐいと押し出し、無理矢理ソファに座らせる。
事務所と思しきこの部屋は、推定六畳程度。狭い室内には先程美女が乗っかっていた事務的なデスクと、来客用なのか二人掛けのソファとその前に小さなローテーブルがひとつ、ぽつんと置いてあるだけだ。
環をソファに座らせるとすぐに、美女は環の隣にどすんと腰を下ろした。
二人掛けとは言っても小さなソファなので、大人二人で並んで座ると妙に距離が近い。環は思わず肘掛けの方へ限界まで身を引いた。
「何でお前までそこに座るんだよ。来客用じゃないのか」
「他に座るとこないもん」
尚親は苦々しい顔でデスクの向こうから可動式のデスクチェアをカラカラ引いて持って来ると、ソファの向かいに置いた。
「お前はここに座れ。近い。客が引いてる」
「それ座り心地イマイチなんだよね」
「買い替えろ。それまで我慢しろ」
美女はブツブツ言いながらも、尚親の用意した椅子に移動する。事務用のその椅子は環が座るソファより座面の位置が高く、長身美女の座高も環より高い。目の前で足を組んで座られると、尚親とはまた違った威圧感を感じる。
「まずは自己紹介ね。私、こういう者です」
差し出されたカードを受け取ると、そこにはついさっきドアの前で見たのと同じ、青い服を着た女教皇の図案が薄い水色の単色インクで全面印刷されていた。そのイラストの上からはっきりした黒で印字されている文字を、環は大きいものから順に読んでいく。
有限会社ハイプリエステス
代表 一 毬円
そして氏名の左上に小さな文字で書かれた肩書は──
「恋愛カウンセラー…?」
声に出して読み上げると、毬円はカンと椅子を跳ね飛ばして、再び環の隣にどかっと腰を下ろした。
両手でぎゅっと環の手を握ると、その麗しい顔面を、触れ合うギリギリまで寄せてくる。
「そう!恋愛カウンセラー、にのまえまりえ!私があなたの恋のお悩み、何でも解決してあげる!」
キラキラ輝く星をいくつも瞳に宿し、毬円は環を熱く見つめた。
その目があまりにも眩しいせいか、はたまた別の理由なのか。
環はくらりと、目眩がするのを感じた。
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