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尚親はブードゥー人形を苛立ちまぎれに床に投げ捨てると、ソファの横に回り環の腕をぐいっと引っ張って立ち上がらせる。
「帰るぞ」
「えっ」
「俺が馬鹿だった。こんな奴と話してたら思い止まるどころか猟奇殺人者になる」
さっさと退室しようとする尚親に、待ったをかけたのは毬円だ。もう片方の環の腕を掴んで、その華奢な外見からは想像つかない剛力で引っ張る。
「帰るなら相談料払って貰いましょうか。三万円」
「寝言は寝て言え。金を取りたきゃそれに見合う仕事をしろよ」
両サイドから引っ張られて進退窮まれり、環はほとんど涙目だった。手持ちがあれば三万でも五万でもいっそ払って、ここから逃げたい。悲しいかな、手持ちはないけど。
「ちょ、二人とも力強っ…、は、離して!腕がもげる!」
いよいよマズいと恐怖を感じて、環は悲鳴を上げた。
と、その時。
「マリエ先生ー!」
事務所のドアが勢いよく開き、輝かんばかりの笑顔を浮かべた若い女性が部屋に飛び込んで来た。
「あら、瑞希ちゃん」
毬円がぱっと腕を離したので、環は反動で思いきり体勢を崩した。
ちっと舌打ちした尚親が腕をぐいっと引っ張って、体ごと環を自分の方へと引き寄せる。ぼすん、と尚親の胸に抱き止められて、何とか転ばずに済んだ。
(うわ)
そんな場合でもないというのに、環の心臓はどきんと大きく脈打つ。確固たる意志の力を証明するような、固く鍛え上げられた男の身体。薄っぺらな章二の胸の中とは、全然居心地が違う。
「マリエ先生っ…私、やりました!先生の言う通りにしたら、全っ部!上手くいったんです!」
「あらあら。そうでしょう?」
毬円はさっと立ち上がって、乱れた髪をさらりと整えた。
二十代後半くらいだろうか、その女性は生気に満ちた顔付きで、向かい合う毬円を拝むように両手の指をがっちり組み合わせ合掌する。
「先生に貰ったよく眠れるサプリをこっそり飲ませて彼を寝かせて、その間に指紋認証でスマホの中を洗いざらいチェックしたんです。そしたら浮気の証拠がごっそり出て来て!それも相手が二人いたんで、誤爆装ってそれぞれに別の相手とのイチャイチャ写真と、さりげなく連絡先とか個人情報わかるようなメッセも送って。そしたら浮気相手同士で申し合わせて彼の職場に突撃してくれたみたいで、会社で修羅場だったそうです!二人の浮気相手と職場での信頼を失った彼は、無事に満身創痍で私の元に戻って来てくれました!」
「うんうん。それは良かったわ。全て私の計画通りね」
「もう二度と浮気しない、私しかいない、私と結婚するって言ってます!先生のおかげです!」
「何を言うの瑞希ちゃん。頑張ったのは貴方よ。私があなたの愛が正しく報われるよう、ほんの少しお手伝いをしただけ」
毬円は聖母のような優しい微笑みを浮かべ、瑞希の頬をそっと撫でた。
「マリエ先生…。でも…ごめんなさい。私、こんなにお世話になったのに、実は彼とは別れることにしたんです」
「あら。そうなの?」
「はい。浮気の証拠集めてる内に、何だか彼に執着してるのが馬鹿らしくなってきて…だって浮気相手の一人には幼児語とファンシーな絵文字まみれのメッセージ、もう一人にはパパ活まがいに金吸い上げられてるんですよ?何かもうキモいなって思っちゃって。そんな時、証拠集めに協力してくれてた彼の同僚に告白されたんです。最初は彼以外考えられないって思ってたんですけど、その内私も少しずつ、その人の事いいなって…。先生のおかげで、彼に私だけを見て欲しいって願いが叶ったのに、言い難いんですけど…」
「馬鹿ね瑞希ちゃん。私は貴方がより幸せになれるなら、何だっていいの。あなたの選択を応援するわ。いつだって、瑞希ちゃんの幸せを祈ってる」
「マリエ先生…!」
ひしっと抱きつく瑞希を、毬円は寛大に受け入れ、抱きしめ返す。
「おい。今の内に逃げるぞ」
尚親の腕の中でぽかんと二人のやり取りを眺めていた環だったが、耳元でそう囁かれ、はっと我に返る。
足音を忍ばせる尚親に付き従って、そっと部屋を後にした。
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