0・愚者 逆位置

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 おかしいと思ってはいた。  交際開始当時はまだ無名だったとは言え、俳優という華やかな肩書をもつ章二が、凡庸を絵に描いたような環を相手にするなんて。  環と章二の奇跡的な出会いは、地方局で毎週放映されているローカル番組の収録現場で果たされた。  地元の女子大に通っていた環は、卒業後、立派なニートと化していた。  就職活動はそれなりに真面目にやっていた。これと言って就きたい職業はなかったが、そこそこ安定している企業で正社員になれればそれでいいと思っていた。だが資格も目立った特技もなく、学力もコミュニケーション能力も外見も人並かそれ以下の環を採用する企業は、なかなか見つからなかった。  実家住まいで生活の保証があるせいか、それでも悠長に構えてのんびりしている環を見かねて、母親がアルバイトの話を持ちかけた。  「ヨガ教室で知り合った占い師の友達が、アルバイト探してるんだって。仕事内容は誰でも出来る雑用らしいし、そんなに忙しくないみたいだから。就職決まるまでの間、やってみたら?」  占い師?  環は目を丸くした。自分の母親にそんな胡散臭い職業の友達がいたとは知らなかった。  だが勤務地は自転車で通える距離だったし、朝のワイドショーで流れる星占いを大体毎日チェックする程度には、占いに対して親しみがある。就職が決まるまでの繋ぎならいいか、と雇って貰う事にした。  ほどなくして、雇い主である占い師の(スイ)先生が、地方局のローカル番組で[今週の運勢コーナー]を担当する事になった。  翠先生は、身長が日本人女性の平均より十五㎝ほど低く、推定体重が倍近くある。細い目は常に笑顔を浮かべているように見えるが、その柔和な外見と裏腹に声質は低い。ゆっくりと噛み締めるように話す独特の語り口は妙な説得力と神秘性を感じさせ、ほんの二、三分のそのコーナーは異例の人気を博したらしい。月に二回、大きな枠を設け、ゲストを呼んで個人鑑定する企画が始まった。  ただの雑用係である環に、現場に同行する程の仕事はない。だがミーハー心を抑えきれず、翠先生に頼み込んで現場に連れて行ってもらった。    章二とはそこで出会った。  ゲストとして呼ばれたのが、当時その地方局で放映されたミニドラマの主演俳優、及川章二だったのだ。  章二はとても感じのいい男だった。ただの付き添いである環にも、観覧用のパイプ椅子を勧めてくれたり、環の分は用意がないと知ると自分のロケ弁を渡してくれたり、差し入れで貰ったお菓子を分けてくれたり、細やかな気配りを見せてくれた。  そして帰り際こっそりと、個人的な連絡先を教えてくれた。「誰にも言わないで」と、甘い声で耳打ちしながら。環はこれは夢だろうかと舞い上がって、思わずその場で自分の電話番号とIDを教えた。    騙されてるのかなと、最初は勿論、そう疑った。  会うのはせいぜい月一回、それも人目を(はばか)って、わざわざ都心から一時間以上もかかるような郊外のホテルに呼び出され、一緒に過ごすのはほんの数時間。  でも──    好きだと言ってくれた。可愛いと言ってくれた。会わない間も君のことばかり考えていると、生涯を共にする事を真剣に考えていると、そう言ってくれた。  身分不相応だと尻込みする環を優しく抱き締め、そのままの君が好きだ、癒されると言ってくれた。  今は仕事上、大事な時期だからスキャンダルは御法度で、二人の関係を公には出来ない。でも俳優としての地位を確固たるものにしたら、その時は公表したいと。それまで待っていて欲しいと。  会えるのは短い時間だけだったけれど、一緒にいる間はひたすら抱き合って、甘い言葉を浴びて。会えない日は濃密な愛のメッセージを送ってくる。  そんな日々を続ける内に、環の疑念は消えていった。    この人はこんな私のことを、本当の本当に好きなんだ。  信じていた。  いつか彼の糟糠(そうこう)の妻と呼ばれる日を、待っていていいのだと。  
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