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その手に握ったものを、結局環は投げる事が出来なかった。
振り上げた腕を、背後から誰かに掴まれていたからだ。
掴まれた瞬間、どくん、と大きく心臓が跳ねた。
誰かから体に触れられる機会なんて、章二以外には無くて久しい。
だが今、環の腕は、章二の細く柔らかいそれとはまるで違う無骨で力強い男の手に、がっちりと捕らわれていた。
その手から、無言の意思が伝わってくる。
動くな。
圧倒的な威圧感。
時間を止められたかのように、頭も体も、一瞬で動作を停止した。
恐る恐る振り向くと、その手の主は、さっき章二の近くにいた兵士のような男だった。氷の矢をつがえたような鋭い目で、環を睨んでいる。
男は凍りつく環の指をもう片方の手でぐいっとこじ開け、手中の物を取り出した。
「──何だ、これ…」
どこか拍子抜けしたような声に、張り詰めていた空気がふと緩む。
「は…離してっ!」
我に返った環は逃がれようともがくが、腕は掴まれたまま振り払えなかった。それでも抗ってじたばた暴れる環の視界の端に、赤い色が引っ掛かる。
「あっ…」
行ってしまう。
章二が、行ってしまう。
揉み合っている内に、気付いたら章二は車に乗り込んでいた。
環は呆然と、遠ざかっていく赤いテスラを見送った。車輌が視界から完全に消えると全身から力が抜けて、へなへなとその場にへたり込む。
「行っちゃった…」
力無くその場に膝をついたが、男はそれでも尚、掴んだ手を離さない。伸びきったゴムのような腕だけが、だらんと宙に浮いているようだった。
「…もういいでしょ。離してよ」
環は地面を見つめたまま、男に向かって小さな声で訴える。
だが男は、淡々とした声で突っぱねた。
「そういう訳にはいかない」
ぐいっと環の腕を引き上げて、無理矢理に立たせる。
「御同行願おうか」
剣呑な目付きでぎろりと睨まれて、環の顔からはさぁっと血の気が引いていった。
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