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自然公園を目指せと言ったにも関わらず、毬円が車を停めるように指示したのは別の場所だった。
「この坂を真っ直ぐ下って。そこに目的のものがあるから」
目的のもの?
一同首を傾げたが、毬円は相変わらず口元に笑みを浮かべるだけで、皆の疑問には答えようとしない。
山の崖面と海に挟まれた道路を数分走る。自然公園を過ぎてからは元々少なかった車通りがさらに減り、行き違う車も人もほとんどなくなった。時折崖面に道が開かれているが、公営のスポーツ合宿所や企業の研究、研修施設があるだけで、観光施設や店などは見当たらなかった。
こんな辺鄙な場所に、何の用があるんだろう?
環がそう考えているところに「近付いて来たわ」と毬円が言った。
百井も笑も環も、毬円の視線の先を見る。
少し先に信号機があった。崖面側にある曲がり角のその先、山道の上方に大きな施設があるのが、木々の隙間から垣間見える。
その信号機に記された名称を見て、三人は一様にはっとした。
「ここって…」
戸惑った様子の百井は、その角で曲がり損ねて真っ直ぐに車を進めた。
「あら。モモ丸、行き過ぎよ。戻って頂戴」
「だって、あそこは」
笑にも環にもすぐにわかった。
あの角を曲がった先にある施設、そこは。
「史希ちゃんのお兄さんが収容されている拘置所よ」
毬円はさらりとそう告げた。
「い…行ってどうするつもり?」
「言ったじゃない。お兄さんを救い出すのよ」
『どうやって⁈』
環と笑が揃って大声を出す。百井もいよいよ集中力が切れたのか、海沿いの道幅が広くなった場所に車を停めた。
「簡単よ」
毬円は本当に何て事なさそうな顔で、鞄から小さな酒瓶を取り出す。
「これ、灯油ね。まずはこれで敷地内のどこかでボヤを起こして騒ぎを起こすわ。そして人目を掻いくぐって忍び込み、看守に遭遇した時はコレとコレとコレで」
毬円は鞄から取り出した物を、ポイポイと環と笑に向かって放り投げてくる。笑の膝の上に乗ったのはスタンガン。環の側頭部にガチっと当たったのは催涙スプレー。そして足元に落ちたのはエアガン。
「まぁこの辺りはこけおどしね。ここからが本番よ。これらのアイテムで出鼻を挫いた後、私がこれでトドメを刺すわ」
毬円は座席から身を乗り出して、後部シートからすらりと長い得物を取り上げた。
金属バットだった。
一同、唖然として黙り込むが、毬円は御機嫌で鞄から出した玩具の手錠とロープをくるくる回して遊んでいる。
「気絶したところをこれで縛って転がしておけば、邪魔は入らないわ」
「…それ、こないだマリエ先生が観てたアニメの展開じゃん。しかもファンタジーの。大丈夫?頭…」
環は脱力して、そう呟いた。
一応上司なのだが、そんな事はもうどうでも良くなっていた。ただただ、呆れていた。
それは笑も、毬円の信徒と化していた百井も同じだった。百井は開いた口が塞がらない、とばかりに呆然としていたが、笑は震える声で毬円に尋ねる。
「そ…それにもし万が一、串田さんを取り戻せたとして…その後どうするつもりなんですか?」
そもそも毬円の計画が成功する可能性なんてゼロではあるが、天文学的確率の奇跡が起こって上手くいったとして、その後どうしようというのか。すぐに警察に包囲されて全員逮捕されて終わりだ。環は笑の腕に縋りついてそうだそうだと同意する。
「お兄さんを取り戻したら、その足で淫獣の元に向かうわ」
毬円は上手くいかなかった時のことなんて視野に入れてもいないようだった。不意に車を降りて、外から助手席のドアを開ける。ずっと窓の外に視線を向けていた史希の顔を、跪いて覗き込む。
「少し降りられるかしら」
毬円は恭しく史希の手を取り、滑らかな手付きで誘導して道路の端に立たせる。そして肩を抱いて、海の向こうを指差した。
「向こうの海辺で事件を起こした時、貴女のお兄さんは、奴を殺すつもりだった。生きて悔い改めるような男ではなかったから。死を以てしか償えない程の罪を犯したから。長い時間をかけて築いた断罪の計画を全う出来なかったこと──無念でしょうね」
毬円は革のケースに収められた何かを、史希の手のひらに握らせる。
環ははっとした。
あれは──
「貴女のお兄さんがあの日使っていたナイフよ。お兄さんを取り戻したら、この武器を手に、一緒に本懐を遂げるのよ!」
舞台に立つ大女優のように自信と威厳に満ちた顔で、毬円はそう宣言した。
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