9・女教皇 正位置

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 何を考えているのか、などと思い悩んだ自分が馬鹿だった。  毬円の主張は最初からずっと、一貫している。思い返せば、出会ったその日に言っていたではないか。  あんなクソみたいな男は生まれ変わりでもしない限り反省する事なんてない。つまり、今世ではとりあえずぶち殺すしかない──と。  環は車から飛び出して二人の間に割り込むと、史希の手に渡されたナイフをばしっと叩き落とした。  ごろん、と空虚な音を立てて、ナイフは道路に落ちる。    「あら、どうしたのタマちゃん。乱暴ね」  「乱暴なのはマリエ先生の方でしょう⁈病気の史希さんをこんなふうに連れ出して一緒に復讐しようなんて、無茶にもほどがある!大体章二への復讐はもう終わったんじゃないの⁈」  「あれはタマちゃんとマルちゃんの分でしょう。史希ちゃんの分はまだ何も成し遂げられていないわ」  「成し遂げたら、史希さんのお兄さんは人殺しになっちゃうんだよ⁈」  毬円を責めながら、環は思い出していた。章二に捨てられた時の衝撃。惨めで悔しくて、地獄に堕ちろと心から思った。その怒りをどうにかしてぶつけてやりたいと思った。  でも、それでも。超えてはいけない一線は絶対にあると、環は思う。    「章二が悪いのなんて皆知ってる。痛い目に合えばいいって私だって思ったよ、でも。殺すなんて簡単に言うけど、そんなことしたら今度こそもう元に戻れない。史希さんのお兄さんだって、本当はあそこまでしたくなかったんじゃないの?だから写真送ったりして、何とかその前に反省させようとしてたんじゃないの⁈章二一人の時を狙う事だっていくらでも出来たのに、わざわざ尚親達が一緒にいる時に事件を起こしたのは何でなの?最後の最後に止めて欲しかったんじゃないの⁈」  それは事件の後に、尚親が話していた事だった。本当に章二の命を獲る事だけを考えたら、成功する手段はもっと他にあった。串田はマネージャーとしてスケジュールを把握していたし、邪魔な護衛を理由を付けて引き離し、二人きりの時間を作る事だっていくらでも出来た。そうしなかったのは理由がある筈だと。  串田が章二に送った写真は、まだ二人の関係が良好だと信じていた頃に史希がこっそり撮ったものらしい。妹の私物を漁って、そんなものを見つけてわざわざ送って。妹を心底想う兄からすれば、(はらわた)の煮えるような写真であったはずなのに、そこまでして史希の事を思い出すよう仕向けたのは、何故なのかと。  串田が求めていたのは、章二の心からの謝罪と反省。それから少しでも、史希に真心を寄せた時期があったという事実。  本当はそれだけだったんじゃないかと。それさえあれば、史希も少しずつ心を取り戻せる、そう思っていたんじゃないかと。  そう、尚親は言っていた。    「…章二のせいで史希さんとお兄さんがどんなに傷付いたか、私にはわからない。けど、章二を死なせたって何も戻って来ないのはわかる。二人がもっとたくさんのものを失うだけだよ。そんなの、絶対に駄目なんだよ…」  報いを、と願う気持ちを捨てたその先に、明るい日々が待っているかどうかなんてわからない。毬円が言う光待つ場所へ二人を導くことなんて、環には到底出来ない。環のささやかな復讐が失敗したあの日、尚親がしてくれたみたいには。    でも、それでも。  ボロボロになるまで傷付いてきた二人に、これ以上何も失って欲しくなかった。甘い考えとわかっていてもその気持ちは変えられなくて、環はぐずぐずと鼻をすすって泣いた。  笑が近付いてきて、そっと環の肩を抱いた。  どのくらい時間が経ったのか。  不意に、史希が動いた。  幽霊のようにふらりとしゃがみ込んで地面に落ちたナイフを拾う。  ゆっくり立ち上がると、柵の向こうに腕を伸ばして、握った手を開いた。ナイフははらりと落ちて、眼下に広がる海に沈んでいった。  「…やさしい、ひとなの。お兄ちゃん。…人殺しなんて…させられない…」  初めて聞いた史希の声は苦しげに震えて掠れていて、潮騒に掻き消されそうなほど、か細いものだった。  
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