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10・女帝 正位置
嫌な予感がしていたのだ。
大事な話があると翠先生に連れ出された喫茶店に、毬円が姿を現したその時から。
「以前から考えていたのよ。占いである程度名を広める事が出来て資金も貯まったら、着手したいなって」
翠先生はにこにこしながら紅茶のカップを口に運ぶ。
「いやあの、翠先生が新事業を立ち上げるのは全然…いいと、思うんですけど」
翠先生の占いアプリは大好評で、課金と広告収入でだいぶ収益が上がっているのは環も知っている。そこで稼いだ資金を使い新事業の立ち上げを考えているという話も、ちょこっと聞いたことはあった。
だが、その話をする場に毬円が同席しているのは何故なのか。
翠先生の隣で涼しい顔をしてクリームソーダのアイスを頬張っている毬円を、環はちらりと盗み見た。
「新しい事業ね、結婚紹介所を始めようと思ってるの」
「結婚紹介所…?」
「それでね、毬円ちゃんには共同経営者になって貰おうと思って」
「共同経営者…⁈」
思わず口に含んでいたレモンティーを吹き出しそうになった。
「まずはマッチングして出会って貰い、その後関係を進めるのに悩んだら翠先生の占いと私の恋愛カウンセリング。同業他社との差別化が図れるし、それぞれのキャリアを活かすのにぴったりでしょう?」
毬円は自信満々で胸を張るが、そんな胡散臭い結婚紹介所を利用したいという客などいるのだろうか。
環は疑問に思ったが、実際占いと恋愛カウンセリングという胡散臭い仕事で、二人がそれぞれに結構な収益を上げている事を環は知っている。環の仕事量も勤め始めた頃とは段違いに増えていて、いい加減もう一人くらいスタッフを入れてくれ、と嘆願しているくらいだ。
「それでね。タマちゃんには新しく作る会社で、正社員として働いて貰えないかなって思ってるの」
「せいしゃいん…」
「経理は専門知識のある人を雇うから、その他の…タマちゃんは広報とかスケジュール管理とか、私達をサポートする色んなお仕事をしてもらえたらなって」
「あ、あの、いやでも」
「やってもらうお仕事は今までとさほど変わらないの。お給料も上がるし福利厚生も手厚くなるし、事務所も新しく借りるんだけど、今より広くて綺麗よ?」
ゆったりした語り口で翠先生にそう言われると、確かにいい事尽くしに思えてくる。
いや、でも。結婚紹介所の正社員?
ゆくゆくは正社員の仕事を見つけたいとはうっすら思っていたが、環のぼんやりした将来設計上に浮かんだ事もない職種だった。
しかもこの二人の下で。癖の強い二人の共同経営が上手くいくとも限らないのに?
「…ちょっと考えさせてもらえますか?」
悩んだ末、環の心の天秤はお断りの方に傾いた。
だって就職するなら手堅い安定企業がいいと思ってたし。未婚の環が人様の結婚のお世話なんて出来る気がしないし。毬円の無茶振りにこの先もずっと付き合えるかと聞かれたら、多分無理。
「何を悩む事があるの?タマちゃん」
クリームソーダで緑色に変わった舌でペロリと唇を舐めながら、毬円は不敵に笑う。
「私とタマちゃんには運命の楔があるわ。切っても切れない仲でしょう」
「え、縁起でもないこと言わないで」
「それに新会社は土日祝日休み。今より随分、尚親と会いやすくなるんじゃないかしら」
「…え…」
「新しい事務所の所在地は都内よ。尚親のアパートの三駅隣ね」
「…なんだと…」
「通勤至便を口実に奴のアパート入り浸り放題、半同棲に雪崩れ込むのも夢じゃないわね。ゴールインへの最短距離と言っても過言ではないわ。お給料も上がるなら結婚資金を貯める事も可能よね」
ゴールイン。即ち結婚。
妊娠したかも疑惑の時に、尚親はそれらしき事を言っていた。けど勘違いだったとわかった後は、そんな話は毛程も出ない。
いつかは、と思ってくれている事はわかったけれど、それが具体的にいつなのかはさっぱりわからない。環としてはいつでも準備万端、むしろ早ければ早いほどいいと思っているのだけれど──最短距離、とは。
甘い誘惑に、環の心の天秤はあっさり逆転しそうになった。
尚親との新婚生活を夢想してぼんやりしている環の手に毬円が何かを握らせ、さっと動かす。
「……あっ!」
はっと我に返った環が手元を見ると、数日前に失くしたと思っていた自分の印鑑を握っていた。テーブルの上には環の住所氏名等があらかじめ記載されている労働契約書。氏名の横には、環の手によってしっかり捺印されていた。
「新しい会社名は女帝よ。一緒に天下を獲りましょうね」
朱肉のケースをぱちんと閉めながら、毬円は満面の笑みを環に向けた。
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