1・運命の輪 逆位置

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 「じゃあ、どうすりゃいいの」  行き場のないやるせ無さを、環はその男にぶつけた。  「何十人も犠牲者が出るような爆発事件起こせばいいの?派手な巻き込み事故でも起こせばいいの?」  「何でそうなる」  男は険しい顔付きになって、環を睨みつけた。  「そうでもしないと章二はわかんないの?私がどれだけ傷付いてどれだけ泣いたか、自分がどれだけ酷いことしたのか、そうでもしないと章二には伝わんないの?」  胸のつかえがまたじりじりと()り上がってきて、目頭がじわっと熱を帯びてくる。  「私が何もしなかったら、章二はこのまま全部無かったことにして、忘れてくの」  環の気持ちも存在も、丸ごと全部、無かったことにして。  「そんなの許せない。せめて私が怒ってる事くらい、知って欲しい。でも大怪我させたい訳じゃないし他の誰かを巻き込んで傷付けたい訳じゃない。そしたら私にはこのくらいしか、出来る事がなかったんだもん…」    尻(すぼ)みに小さくなっていった声は、最後には震えていた。  ぽろぽろと涙がこぼれて、環はうえぇと子供じみた嗚咽を漏らす。  男は少したじろいだような困ったような顔で眉根を寄せて、テーブルの隅にあったペーパーナプキンをケースごと引き寄せて環の前に置いた。  「…それだけまともな感覚が残ってるんなら尚更だよ。一時の気の迷いで身の上汚すより、さっさと次行った方が建設的だろ」  随分簡単に言ってくれる。環はきっと男を睨み付けた。二十年以上彼氏一人出来なかったのに、そんな簡単に次の相手なんて見つけられる訳ないじゃないか。それに、第一。  「私は新しい恋をしたい訳じゃない。章二に思い知らせてやりたいの」  「ああいう奴は何があっても反省なんかしない。例えあんたが死刑判決下されるような大事件起こしても奴に大怪我させても、自分の非は省みる事なく相手に全責任を押し付けて悲劇の主人公(ヅラ)して心にもない配慮に満ちたコメント出して終わりだ。何したって無駄なんだよ」  「反省なんか、しない…」  「まずしない。賭けてもいい」  そうかもしれない。  だって章二にとって環は、取るに足らない存在だから。あの夜のメッセージで、それきり繋がらない電話の呼び出し音で、環にもそれはよくわかっていた。  ぐずぐず泣き続ける環を前に、男は困ったように腕組みをして深い溜息を吐いた。  「…あんたの気持ちも、まぁわからんでもない。同情しないでもないよ。けどな、どうしたってあんたの望むような見返りは得られない。今回の件は不問にしてやるから、あんな奴の事は忘れて…」  「…それ」  「あ?」  「さっきから、何なのそれ。不問にしてやるとかなんとか、あんたに何の権利があってそんな偉そうなこと言うの?」  環の怒りの矛先は、再び目の前の男に向かった。  「章二のことだってよく知ってるみたいだし。あんた章二の何なのよ」  苛立った環の視線を受け止めながら、男は少し考え込むような顔をしてゆっくりと腕組みを(ほど)いた。スーツの尻ポケットから小さな名刺入れを取り出して、中から一枚引き抜くと環の前に置いた。  味気ない名刺だが、小さく印刷されている顔写真は確かに目の前の男のもの。成田(なりた)尚親(なおちか)。社名の末尾には総合警備会社、と記されている。  「総合、警備?」  「及川章二の所属事務所から依頼を受けてる。所謂ガードマンだ。だから俺は奴を害するものは徹底的に排除しなけりゃならない。どんなにあいつがクソみたいな男でもな」  ガードマン。  そのガチガチに固い響きに、環は深く納得した。兵士みたい、と感じた環の印象はあながち的外れでもなかったのだ。  「ついて来い」  「え?」  尚親は唐突にそう言うと、会計伝票を持って立ち上がった。  「サービスだ。あんたの気が済むような場所に連れてってやる。ついて来い」  上官命令だとでも言いたげに威圧的に環を見下ろして、尚親はさっさとレジに向かう。  環は是非を考える余裕もなく、慌ててその背中を追った。
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