一章 リゾルート

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一章 リゾルート

 春、夢に背を向けたまま季節は巡った。 過ぎゆく時間に甘えながら、意思に反して回る環境を恨んだ。 「早瀬おはよう、新学期のくせにぼやっとしてんな」  『県内随一の進学校』そんな肩書を背負いながら過ごす三年目の高校生活が幕を開ける。新学期が始まる毎に執り行われる進路講習会を受講するため、別棟の講義室へ向かう。 「ここにいる君たちが目指すべき大学は……」  ベテラン教師が得意げに語る生徒の将来。名の知れた大学に進学し、一流企業に就職することが本当に人生の正解なのかと疑う気力は、数年前に置いてきた。 「早瀬、これ一枚取って後に回して」 「あっ、うん。ありがと」  『進路希望調査書』 「必要事項を記入して担任に提出するように、以上で講習会を終わります」  この紙に書くことが許されている希望は安定した将来図であって、不安定な夢ではない。そんなことはわかりきっている。 「早瀬、大学どこか決めた?」 「いや……まだちょっと迷ってるかな」  本当は、進学なんてしたくない。三年前入学当初のことを思い返す。 『僕は何がしたかった?』  肩書と進学率は自分を良くみせるための材料でしかなかった、それが今では自分すら見えなく霞ませる呪縛となっている。 「早瀬君!講習会お疲れ様、今年もよろしくね」 「おはよう、高嶺さん……今年もよろしく」  『高嶺 咲夜』常に首位を独占する成績と、それを決して傲らない柔らかく、晴れやかな性格。不意に映る端正な顔立ちが彼女の魅力をより一層、唯一無二のものにする。僕とは対照的な人、きっと住んでいる世界が違うのだと彼女を見る度に思う。 「高嶺さんは卒業後の進路もう決めた?」 「はっきりとは決まってないけど……進学かな」 「そうなんだ、まぁ高嶺さんなら大丈夫だよね」  僕のぎこちない返答に『何それ』と無邪気に笑い、彼女はクラスメイトの呼ぶ廊下へ駆けて行った。清楚な印象を決して打ち消さない絶妙なスカート丈の妖艶さに惚れない異性などいない。 きっと彼女とは人生のスタートラインが、そもそも違う。容姿は遺伝、性格は家庭環境によって形成されるという言葉をよく耳にする。彼女の容姿や性格はきっと、天からの授けものなのだろう。容姿の良さと比例して称賛を得るきっかけも多くなる、得た賞賛によって心に余裕ができれば性格も真っ直ぐに形成されていくのだろう。 生まれた瞬間から、世界に優遇されている彼女が羨ましい。  僕も叶うことなら、彼女の生きている世界で生きてみたかった。 「ただいま」 「おかえり空、いつもより帰り早いんじゃない?」 「今日は始業式と講習会だけだから午前中で終わりなんだよね」 「講習会なんてまだあったんだ、懐かしいなぁ」  僕の帰宅を出迎えたのは、父でも母でもなく姉だった。 三年前、僕と同じ高校に通っていた姉は、ある日を境に家から出なくなった。成績も優秀で、姉の口から友人間でのトラブルに関する話は一度も聞いたことが無かった。最終的に出席日数の不足が原因となり自動退学という形になったらしく、今は日中働きに出ている両親の代わりに、三歳の弟の世話をしている。兄弟間の年齢差から分かる通り両親の関係はかなり良好。 「空は三年生になるんだね、これから忙しくなっちゃうのかもね」 「なんだか息苦しいな」  溢す気のなかった弱音に戸惑い、慌てて自部屋へ向かう。 本当はもっと早く、この息苦しさに向き合わなければいけなかった。疑うこともなく並べられていく普通に従う度、自分の意思に目を瞑る違和感が重なっていく。 「このノート、最後に開いたのいつだっけ……」  引き出しの奥に押し込んでいた作詞ノート。そうだ、僕は音楽が好きだった。 「空、入ってもいい?」 「うん、大丈夫だよ」 「ねぇ、お姉ちゃん……これ覚えてる?」 「このノート……まだ空のところにあったんだ」  音楽で食べていきたいと本気で思っていた当時の自分を押し込めるように進学した選択を悔やむ。 「最近は何か書いてるの?」 「……書けてない」  溢れるように出てくる言葉を書き留めるのに必死だった手は、いつしか渇ききった言葉を振り絞るため頭を抱える手となった。時間が経つにつれて言葉を紡ぐことすらできなくなった。 「ねぇお姉ちゃん」 「ん?」 「僕がもう一度音楽を、作詞を本気でやってみたいって言ったら……お姉ちゃんはなんて言う?」 「その選択を心のそこから応援する、お姉ちゃんにできることはなんでも協力する」 「それを理由に学校を辞めるって言っても?」  数秒の間の後に、姉の口が開く。 「空が考えた上での答えなら、その選択も正解だと私は思う」 「……そっか」 「ねぇ空、お母さんたちが帰ってくるまで少しゆっくり話そうよ」  僕の隣に腰掛ける姉の存在が、感じたこともない程心強かった。 「僕はもう一度、本当にやりたいことをやってみたい」 「それが空にとっては音楽……?」 「別に音楽は学校に通いながらでもできるって僕もわかってる、でも……」  あと少しで、この違和感を言葉にできる。 「あそこにいると、僕自身がしたいことを見失っていく」 「見失う……?」 「好きっていう感情より先に、安定的か、世の中から必要とされているか。そんな損得ばかり考えちゃう」 「空……」 「本当は勉強も音楽も綺麗にこなせるのが理想だけど、僕はそんなに器用じゃなかった。場の空気に従うか、自分を殺すかしかできなかった……」  三年間、ずっと目を瞑ってきた本当の気持ち。僕が本当に好きだったこと。この夢は誰にも言わずに墓場まで抱えていくんだという決意は、この瞬間に崩れた。 「私は、空の将来を決める権利はないけど……ひとつだけ言えるなら」 「ひとつ……?」 「私は空の紡ぐ詞が好きだよ」 「僕の詞が好き……?」  それは、僕がずっと欲しかった言葉。 「あっお母さんたち帰って来たよ、この話はまた後で」  庭からのエンジン音を察知し、重い空気を断ち切るように姉は話を切り上げた。 「ただいま」  結婚して十数年経っても変わらず『夫婦』として『親』として、真っ直ぐに何かを愛するふたりを人間として尊敬する。そんな理想的なふたりの支えの上で成り立っている今があるからこそ、身勝手な夢を打ち明けることが怖かった。 「お父さん、お母さんお帰りなさい」 「空!新学期お疲れ様、最後の高校生活楽しむのよ」  姉が正式に退学を決意した時も、両親が姉の気持ちを咎めることは一度もなかった。 進路を重視する学年に進級した僕への掛ける言葉からも、その確かな寛容さと優しさを感じる。ただ、今の僕にはその優しさが痛かった。 「あら……空、食欲ない?」 「あ……うん、ちょっと久しぶりの学校で疲れちゃって、今日は早めに寝るね」  恵まれすぎた環境に居ながら、何も見出せない自分への惨めさだけが募っていく。 「空、ちょっと入るよ」  扉を叩く音と同時に、姉の声が聞こえた。 「お姉ちゃん……ごめん、心配かけて」 「そんなこと気にしなくていいの!悩む時なんて誰だってあるんだから」 「お姉ちゃん……ありがとう」  静かに扉を閉めた後、数時間前と同じように隣に腰掛ける。 「さっき話してくれたこと、空の中では確かなことなの?」 「僕の中では……」 「余計なことは考えなくていいよ、空がどうしたいか、何が好きかそれだけを考えてほしいの」 「僕は……好きなことを、夢を追いたい」 「その言葉が聴けて、少し安心したよ」  僕の言葉に安堵しながら、やや緊張感のある表情で姿勢を正す。 「空、これ考える材料にしてみて」 「何……これ?」  渡された茶封筒には、僕の通っている校名が刷られていた。 「退学書類一式」 「退学書類……?」  姉からの予想もつかない返答に息を呑む。 「空、今日『進路希望調査書』渡されたんじゃない?」 「なんでそれを……」 「それは、私だって三年前まで一応生徒だったんだからシステムくらい覚えてるよ」 「でも……それとこの書類は」 「進路は進学するだけじゃないでしょ?空の未来を決めるのは空自身なんだから、選択肢は多いほうがいい」 「お姉ちゃん……」 「まぁ許されるかギリギリの行為だから、私がこの書類を渡したことは内密にね」  こういう破天荒さも、姉の好きなところだ。 「お姉ちゃん、この書類……」 「安心して期限は切れてて提出しても無効だから」  封筒から書類を取り出し、文字列を眺める。内側の葛藤を消し去るように綴られる淡々とした言葉に虚しくなる。 「本当に決断する時は、お母さんとお父さんにちゃんと空の口から話すんだよ」 「……そうだよね」 「大丈夫、ふたりが一番に考えてるのはいつだって空自身のことだから」 「僕自身のこと……」 「私のときもそうだった、だから怖がらなくて大丈夫」 「いつかちゃんと、僕の言葉で話すね」 「それまでは私がいるから大丈夫、なんでも力にならせてよ」  自分の中で、ほぼ決まりきった決断に少しだけ息がしやすくなったのを感じる。 ー*ー*ー*ー*ー  言葉に表しきれないままの決意を握り階段を登る、作詞ノートを片手に屋上への扉を開けた。    
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